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8・6を伝える

中沢啓治「はだしのゲン」

book 国民学校2年生、中岡元(なかおか・げん)は1945年8月6日に投下された原爆で父やきょうだいを失う。焼け野原となった広島で死んだ弟そっくりな隆太(りゅうた)と出会い、貧しさや飢えにも負けず、暴力団の手先として命を失う孤児、ケロイドや白血病に苦しむ人たちの中でたくましく育つ。軍国主義や米国への従属など、時流に流される大人たちや核兵器開発を進めようとする国々への怒りも率直に表現した長編漫画。

骨まで奪った原爆に怒り/言論の自由へ思い込めた



中沢啓治

なかざわ・けいじ

1939年広島市生まれ。江波中卒業後、看板店で働きながら漫画を描く。63年に「スパーク1」でデビュー。68年発表の原爆をテーマにした最初の作品「黒い雨に打たれて」は約1年各出版社を持ち回った後、世に出た。白内障が悪化し、2009年に漫画家引退を表明した。

「あの日、僕の目はカメラになったんです」。焼けはがれた皮膚が爪の先からぶら下がったまま歩き続ける人たち、ガラス片が全身に突き刺さって苦しむ人々…。漫画に描いた数々のシーンは原子爆弾が投下された直後に見た光景そのままです。

少年中岡元が、家族との別れや貧しさなど、原爆によるさまざまな傷と向き合いながらたくましく生きていく自伝的漫画「はだしのゲン」。元の家族構成や被爆した時の状況は自身のものです。

6歳の時神崎国民学校(現在の神崎小)で被爆し、父親と姉、弟を失いました。「死体の腐った何とも言えない臭いは今も鼻の奥に残っている」と言います。惨状を伝えるために作品にはショッキングな描写をあえて組み込みました。「批判を受けたこともある。でも子どもたちの多くは『原爆被害の深刻さがよく分かった』と感想を寄せてくれた」

中学卒業後、看板業に就きながら漫画を描き続け、1961年、漫画家を目指し上京しました。「被爆者が口をつけたコップに触ると放射線を浴びる」などという偏見があり、原爆という言葉から逃げ回っていました。作品でも触れることはありませんでした。転機は66年に母親が亡くなってからです。

火葬した母親の遺骨は、小さな破片しかありませんでした。「原爆は骨まで奪うのかとはらわたが煮えくりかえった」。原爆を描き続けた出発点です。「はだしのゲン」は73年に週刊誌で連載を始め、単行本の販売部数は計約1千万部に上ります。

タイトルは、被爆後の荒野を勇ましく歩く様子をイメージしました。「漫画は面白くなければ読まれない」。たくましく生きる様子や喜怒哀楽を豊かに描いています。「とにかくいつも飢えていた」と当時を振り返ります。体験にもとづいて食べ物を手に入れるために元があの手この手を使う場面がユーモラスに描かれています。

原爆が投下されるまでの家族の生活にもページをさきました。「言論の自由への思いも込めた。洗脳されて自由にモノをいえない社会の恐ろしさも知ってほしい」。父親は「戦争はいけん」と主張し続け、投獄されました。続編を描く構想もありましたが、「余韻を持って終われたのが良かったと思う」と今では感じているそうです。

子どもたちに伝えたいことは、日本が進むべき道は武力に頼らずにすべての国と話し合う全方位平和外交しかない、という理念だそうです。(村島健輔)

私がイチオシ☆ 高3・村重 茜

この本を読んで初めて「非国民」という言葉を知りました。今では平和を訴えることは何も不思議ではありません。戦争に反対することを非難する人々に少し憤りを覚えました。でも戦争が人をこういう状態にさせていると思ったとき、戦争は恐ろしいと感じました。

原爆孤児の生活は教科書には載っていませんでした。でもその日をどうやって生き抜くか精一杯頑張っている姿には涙が出ました。もし私が孤児になったらあんなふうに生きられるかなと読むたびに思います。


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