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 吉川 浩司(中)  逆風越えて「もう一度」


ロサンゼルス五輪の体操会場で放送回線のチェックをする筆者(右端)=1984年8月

よしかわ・ひろし

1961年広島市生まれ。市立舟入高を卒業後渡米。カリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)経済学部卒業。25歳で留学と異文化交流のサポートを主業務とするアメリカンドリームを設立。ロサンゼルス五輪通訳、原爆ドームの世界遺産登録への協力、2002年ワールドカップ(W杯)日本招致委員会国際部員などを経験した。この2月に広島であった「APECジュニア会議in広島2010」の統括ファシリテーターも務めた。

広島市立舟入高を卒業した1979年の夏、18歳の私は米国東海岸にある生徒数650名の小さな大学の経営学部1年生となりました。留学を目指して努力を重ねてきたわけでなく、隣のクラスの生徒が留学するという話を聞いて、「そりゃカッコいい」とまねをしただけした。

「まあ行けば何とかなるだろう」とのん気に構えていましたが、なんともなりませんでした。最初の学期が終了した留学4カ月後の冬、「成績が悪すぎる」として「次の学期に成績を基準点まで引き上げなければ退学にする」という警告書を出されました。全米最大の陸軍基地のある治安の悪いその町が嫌いで、日本が恋しくて白いご飯が食べたくて、私はひどいホームシックになっていた時でもありました。


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しかしこの時が、子どものころから大人の顔色を見ながら要領よく適当にやって来た私の大きな転機となりました。生まれて初めて目の前の困難と向き合いました。英語で書かれた分厚い教科書を前に何度もあきらめかけ、そして、投げ出したペンを何度も拾い直しました。

そんな4カ月間の奮闘の末、次の学期でギリギリの及第点を取り退学を免れた私は、日本恋しさのあまり、「単位を持って転校できる」アメリカの大学制度を使って、日本人のたくさんいるハワイの小さな大学に転校しました。その後、ハワイでの1年を経てカリフォルニア州サンフランシスコの小さな大学に再度転校、その1年後には3度目の転校によりカリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)の経済学部に編入、専門課程の授業をすべて取り直して2年後に卒業しました。

卒業が難しいと言われるUCLAですが、卒業時には学部長名誉リストに名前が載るくらいの成績に上がっていました。


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留学時代もそうですが、私はいつもスタートと同時にズッコケるようです。大学を卒業した84年、初めての仕事としてロサンゼルス五輪の通訳を務めましたが、その初日、「こんな所でウロウロするな。バカ野郎!」と、いきなりディレクターに怒鳴られました。

その後会社勤務を経て87年、25歳の時に現在の会社を設立したのですが、これは私が中学1年の時に倒産した父の会社の負債を肩代わりして借金1億4000万円からのスタートでもありました。

後にサッカーのワールドカップ(W杯)日本招致活動へとつながる、アジアカップ(92年)の仕事に入った時のことです。初日に「やることないから君はもう帰っていいよ」とスイス人の役員から言われて思いっきり落ち込みました。それから後も家族との死別をはじめ、「またおれか!」と運命を恨むほど、さまざまな逆風を体験しました。

しかし、それらの体験は私に何かを教えようとしたのではないかと、最近私は感じています。

「生きるとは素晴らしいことである。生きるとは、たくさん泣いてほんの少しの喜びの尊さを知り、それを周りに分けてあげることである」。そう気づかせてくれようとしたのではないでしょうか。一生懸命やってみて、仮に失敗しても、それで地球が終わることはありません。「大丈夫。もう一度やってごらん」と若い人たちに伝えるのが、これまでたくさんの失敗を重ねてきた私の役割だと思っています。

 
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