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ヒロシマ 市長・知事に聞く


世界で初めて原爆という核兵器の被害を受けた広島の「顔」である広島市の松井一実市長(58)、広島県の湯崎英彦知事(45)。実は2人とも原爆と深い関わりがあります。というのも松井市長は、お母さんが原爆に遭っている被爆2世。湯崎知事は、お父さんが爆心地周辺の実態について研究していたほか、1945年末までに原爆で亡くなった数を14万±1万人と推定した委員会のメンバーでした。

今回、2人にヒロシマの役割や核兵器廃絶への考え、子どものころの思い出などについてインタビューしました。

国策との関係があるため、すぐに核兵器を廃絶するのは難しい、というのが2人の意見でした。しかし、世界各国、地域のトップの人たちに広島を訪れてもらったり、広島の思いを世界に発信したりして、平和な社会の実現を訴えていこうとする熱い思いを聞くことができました。


 松井一実広島市長 訪ねてもらい核廃絶発信

母が被爆。にぎわい戻す街見て育った

    広島市東区出身。牛田小、牛田中、基町高、京都大卒。1976年、労働省(現厚生労働省)に入省。在英国日本大使館一等書記官や勤労者生活部長、中央労働委員会事務局長などを経て、2011年2月に辞職。同年4月から現職。

―被爆地広島の市長として、平和について何をどう発信したいですか。

原爆をこの世からなくした方がいいという気持ちを、世界中の人が持つようにしたいですね。まずは広島市民全員に核兵器があってはならない、と確信してほしいです。

「平和」とは、戦争や武力衝突がない、という物理的な状態だけではありません。心の問題です。心に煩わしさがあったら平和とはいえません。市長の仕事は、充実した人生を送るという「平和」を味わってもらえるようお手伝いすることだと思っています。

―家族に被爆体験を聞いたことはありますか。

被爆したのは母ですが、ほとんど語りませんでした。当時女学校に通っていて、爆風で校舎の下敷きになり、助けた友達もいたし、死んだ友達もいたと聞いたくらいです。母は43歳で亡くなりました。

―子どものころの広島は、原爆の傷痕がまだ残っていましたか。

広島城の周りや広島駅前の川沿いに、木で造った小屋、いわゆるバラックが多くありました。今でいう仮設住宅。川にくいを打ち込んで、せり出した家です。広島城の堀も干上がって荒れていました。ただ、みんな生きようと一生懸命でにぎわいがありました。

―核兵器はなくなると思いますか。

私が生きている間になくなるかは疑問です。国同士の利害が対立した時に核兵器を見せて覇権、勢力を守る図式になっているのが現状です。

―コンセプトにしている「出かける平和から、迎える平和へ」とはどういう意味ですか。

外国に行って平和を訴えるだけでなく、広島に来てもらい、広島市民が平和を目指している姿勢を見てもらい、被爆者の思いを伝えようという考えです。平和に関する会議も広島か長崎で開けばいい。前市長が10回海外に行っていたのを2回くらいにして、8回はこちらで対応したいです。

―核兵器廃絶を目指す平和市長会議の行動目標「2020ビジョン」をどう考えていますか。

核兵器や戦争をなくそうという考え方で進めたいです。「できるか」というと疑問はありますが、やっていきたいと思っています。

―海外の人と会う機会が多いと思いますが、英語はしゃべれますか。

ロンドンで3年間生活していたので日本語みたいに流ちょうではないけど、しゃべれなくはないです。聞くのは大体分かります。

(高2・熊谷香奈、矢田瑞希、高1・坂田弥優、田中壮卓、城本ありさ)



市役所旧庁舎資料展示室で子どものころの思い出を話す松井市長(撮影・高1田中壮卓)

 湯崎英彦広島県知事 平和な世界へ拠点化構想

爆心地調べたおやじ。問題身近だった

    広島市佐伯区出身。五日市南小、広島大付属中・高、東京大卒。1990年に通商産業省(現経済産業省)に入り、米州課課長補佐、米投資会社出向などを経て2000年に退官。通信会社を設立し、ブロードバンドサービスを展開した。09年11月から現職。父は社会学者で元広島大教授の湯崎稔さん(1984年死去)。

―平和に関して、海外の人とのやり取りで印象深いことは何ですか。

ノーベル平和賞受賞者から国際協力機構の研修生まであらゆる立場の人が、広島が復興できた理由を質問します。私は、復興できると確信を持つことだと言っています。

―知事のお父さんは原爆の研究をされていたそうですが、影響はありますか。

おやじは早くに死んだので、直接的な影響はありません。しかし平和問題は身近にありました。

おやじは爆心地の復元をやっていました。そのために被爆者の証言がいるのに、爆心地から500メートル以内ではほとんどの方が亡くなっている。生き残っていてもどこにいるか分からないのを一人一人見つけて話を聞いたんですね。被爆者との関係を大切にしていました。

―では、子どものころ、原爆や平和についてどう思っていましたか。

原爆は差別と結びついていました。被爆者であるのを知られるのが嫌な人もいましたから。一方、被爆の実態を伝えていかなければならない雰囲気もありました。そんな時代の中で、原爆は怖いと思っていました。そして、何で核兵器を持ち続けるのだろうという単純な疑問がありました。ただ僕は、核兵器より外交や国際関係に関心を持っていました。

―今まで、多くの人が核兵器廃絶を訴えてきましたが実現しません。何が足りないのですか。

核兵器だけの問題じゃないのです。冷戦がいい例です。互いの勢力の境界線で紛争が生じる中、体制の一環として核兵器があったんですね。廃絶に向けては、核兵器なしにどう安全を保障していくのかという、当事国同士の交渉が必要です。米国とロシアでは始まっています。核兵器がなくても保障できると言う人もいますが、政策当事者がそれを信じなければ意味がありません。

平和な国際社会に向けて包括的にアプローチするために、広島県は「国際平和拠点ひろしま構想」の策定を進めています。構想には、国際平和の構築や核兵器廃絶に向けて、広島が果たすべき役割を組み込む予定です。今年11月、国連本部で構想を発表します。潘基文(バン・キムン)事務総長にも会って国連の支援を依頼したいです。

―平和のために、中高生に何ができますか。

まず、平和について勉強することです。次に、平和に対する自分なりの視点や考えを持つことです。さらに、身に付けたことを実践してください。何ができるかは、自らしっかり考えてください。

(高2・西田千紗、中3・末本雄祐、大林将也、石井大智)



知事室に置かれた立ちテーブルで取材に応じる湯崎知事(撮影・中3大林将也)

なるほどキーワード

  • 冷戦 第2次世界大戦後に起きた、米国をはじめとする西側諸国と、旧ソ連が主導した東側諸国との対立構造。1989年11月に冷戦を象徴し、東西ドイツを隔てていた「ベルリンの壁」が崩壊。同年12月の米ソ首脳会談(マルタ)で冷戦終結を宣言し、91年7月に両国は第1次戦略兵器削減条約(START)に調印した。