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おじいちゃん・おばあちゃんに聞く原爆

切なる願い 受け継ぐ夏に


広島に原爆が投下されて66年。ことしも「8月6日」が近づいてきました。被爆者の平均年齢は77歳を超えました。高齢化が進む中、被爆者から直接話を聞く機会が減りつつあります。

今回はジュニアライターの祖父母に、被爆体験を取材しました。戦中や戦後の暮らし、子どもの頃の思い出も教えてもらいました。「戦争は絶対にしてはいけない」「平和な未来を築いてほしい」−祖父母からそんなメッセージを受け取りました。

孫であるジュニアライターは、祖父母から被爆体験をきちんと聞くのが初めてでした。身内だと、話す方も聞く方も気恥ずかしさがあるかもしれません。でも、身内だからこそ自分のこととして捉えやすいはずです。皆さんも、夏休みに祖父母や親戚に戦争体験をたずねてみてはどうでしょうか。


「まず周りの幸せを」
佐々木尉文(やすふみ)さん(71)=広島市西区孫 佐々木玲奈(れな)記者(14)

 横川駅の近くで被爆
広島の復興の象徴だったお好み焼きとソースについて玲奈さん(中)たちに語る尉文さん(右)(撮影・高2畦池沙也加)

6歳の時、爆心地から1・6キロ離れた横川駅近くで被爆しました。自宅の外で近所のおじさんに抱っこされて米軍機を見ていました。まぶしかったので下ろしてもらい、落下傘のようなものが見えた後、ピカッと光ったのです。記憶はそこまで。気付くと吹き飛ばされていましたが、ほぼ無傷でした。

近くの倉庫で酢を造っていた父にもけがはありませんでした。母は倒壊した自宅のはりが頭に落ちて気を失っていましたが、尉文さんの泣き声で意識を取り戻しました。「やっちゃんが大泣きしてくれて助かった」とよく言っていたそうです。母と手をつないで親戚の家へ避難する途中、竹やぶでうめいている被爆者を見たのを覚えています。

 お好み焼き店と共に

尉文さんは7人きょうだいの末っ子。被爆した2人の兄は、1人は被爆から16年後、もう1人は60年以上たって、白血病で亡くなりました。「放射線の影響はすぐに出るとは限らない。原発事故も本当に恐ろしい。将来を考えると心配だ」と懸念します。

尉文さんは現在、お好み焼きソース製造のオタフクソース(広島市西区)の会長です。原爆投下時、父は酢の製造や酒の小売りをしていましたが、原爆で何もかも失い、ゼロからのスタートとなりました。

父は1950年にソースの製造、販売を始めました。原爆や戦争で夫を亡くした女性たちが始めたお好み焼き店は「復興の象徴」。ソースは店を支えてきたのです。尉文さんも、ニンニクの皮むきやタマネギ切り、ラベル貼りなどを手伝いました。

 家業のソースに専念
尉文さんに抱かれる玲奈さん(1999年ごろ)

子どもの頃の尉文さんの夢は米国へ行くこと。原爆を落とした国でしたが、母は移民先の米国で生まれ、母方の祖父母から金時計や指輪をもらったり、暮らしぶりを聞いたりして憧れていたのです。

しかし18歳の時、尊敬する父から、生まれて初めて頭を下げられました。「うちの仕事をやってくれんか。兄弟が力を合わせれば日本一になれる」。家業に専念することにしました。

子どものころを振り返り「今から考えると粗末な生活だったが、幸せだった。それは将来が良くなるという強い思いがあったから。みんなも将来に希望を持って」と訴える尉文さん。玲奈さんら孫世代には「自分のことだけでなく、まずは周りの人たちの平和と幸せを考えて。そうすれば世界の争い事はなくなる。そんな世界を築いてほしい」と強調します。それは父から教わったものだそうです。

(中3・佐々木玲奈、高1・秋山順一)


「平和が一番で尊い」
田中寛治(かんじ)さん(89)=広島市中区孫 田中壮卓(まさたか)記者(17)

 京都から3日後入市
壮卓君(中)たちに、平和の尊さを訴える寛治さん(左)(撮影・中3市村優佳)

原爆が投下された時、京都帝国大学(現京都大)医学部の3年でした。知ったのは、2日後の8月8日の朝刊です。広島に新型爆弾が落とされたという内容でした。「これは大変な事が起きた」。寛治さんは満員の汽車に何とか乗り、広島へ戻りました。翌9日、広島に着いて見えた建物は、福屋百貨店(現福屋八丁堀本店)や広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)などわずかでした。

 自宅天井 爆風の被害

横川駅から約4キロ北にある安佐郡祇園町(現広島市安佐南区)の実家までは歩いて戻りました。家族は無事で自宅も残っていましたが、天井が爆風で浮き上がっていました。「京都も爆撃された」といううわさがあったため、実家へ戻った寛治さんに、家族はびっくりしたそうです。

8月15日の終戦の日。「重大発表がある」という予告があったので、「戦争を継続させるために頑張れ」と言われると思っていました。ラジオの音は途切れて聞こえにくかったのですが、戦争に負けたことは分かりました。数日して灯火管制がなくなり、終戦を実感しました。

 小児科医で戦後歩む
寛治さんに抱っこされ、笑顔を見せる壮卓君(4カ月)

そもそも医者を目指したのは1939年に病気で亡くなった父親の勧めでもありました。もし戦争が続いていたら、45年10月から軍医になるための学校に行く予定でした。戦後いったん京都に戻った後、しばらく広島にいましたが、46年4月から大学に戻り、小児科医になりました。

妻の茂喜子(もきこ)さん=3月に81歳で死去=と51年に結婚。16歳の時、皆実町(現広島市南区)の広島地方専売局で被爆した茂喜子さんは晩年、壮卓君たちに被爆体験をよく語っていました。寛治さんは「家内はそう長くは生きられないのが分かっていたので、戦争の悲惨さを伝えておきたかったのでしょう」と気持ちを代弁します。

昨年9月まで開業医だった寛治さん。妹と双子で産まれた壮卓君について「2・7キロしかなくて小さかったけどかわいかった」と言います。今も一緒に暮らしており「おばあちゃん子で優しい。細かいところに気がつく」そうです。壮卓君含め3人の孫に「平和が一番で、尊いものだということを伝えたい」と強調していました。

(高1・田中壮卓、中3・坂本真子)


「戦争絶対いけない」
石野正義さん(78)・政子さん(74)=広島市安佐南区孫 岩田皆子記者(18)

 6年の春 妹らと疎開
疎開していたころの思い出を皆子さん(左から2人目)たちに語る政子さん(右端)と正義さん=左から3人目(撮影・中2高矢麗瑚)

戦時中、二人が最も印象に残っているのは疎開です。正義さんは荒神町国民学校(現荒神町小)6年の春、広島駅近くの自宅から安佐郡久地村(現広島市安佐北区)の明法寺に2歳下の妹と疎開しました。同級生たちも一緒でした。

疎開する前は、空襲警報が鳴るたびに防空壕に逃げ込む日々。いつ攻撃されるか分からない恐怖を抱えていました。

疎開先へ出発する際、汽車に乗る児童たちを見送りに来た友達のお母さんが泣き崩れていました。「あの母親は原爆で亡くなったと聞いた。最後の別れになったのだろう。今になって親の悲しみが分かる」。正義さんは涙をぬぐいます。

疎開先では先生から「ゆっくりかんで食べなさい」とよく言われていました。食べ物がなくて2、3口で食べ終わるような料理を、数十回かみしめていました。

 寺の境内 黒っぽい雨

8月6日、田舎の村にも原爆の被害は及びました。覚えているのは、お寺の境内に降った雨。いつもとは違う黒っぽい雨でした。広島に様子を見に行った寮母さんから両親やきょうだいが無事だと教えてもらいました。

家は旅館を営んでおり、亡くなった宿泊客もいました。母は旅館の下敷きになりながらも祖父に引っ張り出されて無事でした。終戦から数カ月後、疎開先から戻り、火災を免れていた段原(現広島市南区)で生活を始めました。原爆を生き延びた近所の人が次々と亡くなりました。「自分の親も今は元気だけど、いつ死ぬか分からない」。原爆の怖さを初めて感じました。

 きのこ雲 山から見た
弟のお宮参りで、正義さん、政子さんと並んで写る当時5歳の皆子さん(右から2人目)

荒神町国民学校2年だった政子さんは、広島駅近くの自宅から安佐郡福木村(現広島市東区)に家族で疎開していました。法事の準備をしていたその時、大きな音がして、母は衝撃でひっくり返りました。急いで近くの山に登った政子さんの目に、きのこ雲が見えました。

数日後、母と一緒に広島へ戻った政子さんは「こんなことが起きてしまって恐ろしい」と感じました。戦後通った荒神町小は当初、机もなく、外で授業をしていました。

8人の孫に恵まれた二人。現在、南区でそろばん教室を開いています。正義さんは「子どもの頃は生きるのに精いっぱいで勉強したくてもできなかった。今の子どもたちは努力次第で夢がかなえられる」。政子さんは「戦争は絶対にしてはいけないということを忘れないで」と力を込めます。

(高3・岩田皆子、高1・井上奏菜)



なるほどキーワード

  • 灯火管制 戦時中、電球に黒い布をかぶせて覆ったり、明かりを消したりして、照明の使用を制限していた。暗くすることで、敵からの攻撃を防ぐのが目的。

 被爆3世菊田さん 来月広島で写真展

廿日市市出身で被爆3世の写真作家菊田真奈さん(24)=東京都=が8月15日〜9月11日、広島市中区加古町の中区図書館で、写真展「ひろしまの未来」を開きます。

今回の「ひろしま国」の取材に同行した菊田さん。ジュニアライターと祖父母の写真など計8点を展示します。ジュニアライターの感想も添えます。菊田さんは、すさまじい体験をした祖父母、これからの未来をつくる孫の写真を見てもらい「平和のために何ができるか考えるきっかけにしてほしい」と話します。入場無料。撮影に協力してくれる被爆者とそのお孫さんも募集しています。