english
世界の中のヒロシマ

知ってほしい核兵器の怖さ美帆シボ

ボンジュール!

私は25歳のときフランス人と結婚しました。日本での新婚旅行はどこがいい?と夫に問(と)うと、ヒロシマとの答え。「徴兵制(ちょうへいせい)で軍事訓練をうけた時、原爆が落ちたら机の下に入れと言われた。でも、原爆で街が一瞬に消えた、という話もある。そこに住んでいた人々がどうなったのか知りたいんだ」

1975年、私たちは広島の原爆資料館を訪れました。夫は重なってくっついたお茶碗(ちゃわん)の前に立ちすくんでしまいました。すでに写真や映画で原爆の被害を知っていた私は特にショックを受けませんでしたが、資料館を出て、お茶を飲みに入った場所で被爆者同士の会話を耳にはさみ、背筋(せすじ)が凍(こお)る思いでした。戦後何年たっても苦しみつづける被爆者の生(なま)の声を聞いたからです。

でも、フランスで何をしたらよいのかわからないまま、私は2人の子どもの母親になりました。

「サダコと折り鶴」展1

フランスで初めて開いた「サダコと折り鶴」展で、子どもたちに折り鶴の説明をする美帆さん-左端(2005年3月)

「サダコと折り鶴」展2
美帆(みほ)シボ

静岡県生まれ。1975年に渡仏。82年に「フランス広島・長崎研究所」を設立した。現在、フランス平和自治体協会顧問。歌人としても知られる。昨春にはファンタジー小説「ババロン伝説」を出版した。パリ郊外のマラコフ市在住。

80年のある日、友人にたのまれて8歳になるニコラを1日あずかりました。ニコラは私の子どもたちがお昼寝をしている間、居間(いま)で飛行機を片手に遊んでいましたが、急に、「だめだ、こんどは原爆投下だ」と叫びました。私はびっくりしてニコラを呼ぶと、本棚から原爆写真集を取り出し、ヒロシマとナガサキの被害を説明しました。

その時ほど自分が日本の歴史を背負(せお)って生きていることを強く感じたことはありません。けれども、私がお嫁に来たフランスは核兵器を持っている国でした。子どもたちは原爆がどんなものか知らないままに、遊びに取り入れていたのです。それは、ナチスの紋章(もんしょう)をかっこいいと身につける日本の若者が、ナチスが何百万人もの人々を殺した史実を知らないのと同じです。もし、フランスで子どもがナチスごっこをしたら、大人はきっと事実を教えるでしょう。

そこで、私は原爆の実相(じっそう)をフランスで伝えるために、夫と本の出版、原爆展、被爆者講演を行い、そして日本の友人たちの協力を得て、サダコちゃんと「原爆の子の像」をテーマにしたアニメ「つるにのって」を制作し、世界に広めました。

また、私たちの住むマラコフ市を中心に、フランスの都市や県に呼び掛け、1985年に始まった世界各国からの平和市長会議に参加してもらいました。これらの参加都市に呼び掛けて、フランス平和自治体協会AFCDRPが結成されたのは1997年。県や市町村が毎年平和のイベントを企画し、「平和の文化」を創(つく)るためのネットワークです。現在、平和市長会議の加盟自治体はフランスだけで79に増えました。

戦争の被害者はいつも市民です。しかも、戦争が引き起こす環境破壊は長い期間にわたって地球を汚染します。子どもたちに美しい地球を残すため、「戦争のない」世界を皆でつくりましょう。