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世界の中のヒロシマ

(19)許しと和解誓う平和都市 岡本秀子

コベントリーは、ロンドンから北西に特急電車で約1時間の位置にある人口約30万人の都市です。市内のいたるところに残る古い建物が中世に繁栄したことを伝えているすてきな街です。市街地を中心に、住宅街と道路が放射状に伸び、取り囲むように広大な田園風景が広がっています。

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上=キャンドルサービスの中、折り鶴をささげるコベントリー市民 下=コベントリーにある「和解」の像

おかもと・ひでこ

広島県世羅町出身。夫の転勤で2004年から1年、英国コベントリーで過ごした。「コベントリー会」代表。広島市安佐南区在住。

ここに住むことになるまでコベントリーという名前すら知らなかった私ですが、行って初めてヒロシマとの意外なつながりを知り驚きました。

毎年8月6日には聖堂のチャペルで平和イベント「ヒロシマ・ナガサキデイ・サービス」があります。2004年のその日、私も参加しました。音楽や朗読、祈りの後、千羽鶴を1人1羽ずつ折りました。キャンドルサービスもありました。日本からはるか遠く離れたこの地でヒロシマ・ナガサキの悲劇に思いをはせ、世界平和を祈る人たちがいることに感動しました。こぢんまりとした集いでしたが、毎年市長も参加する行事です。

この会場となる聖堂の隣には第二次世界大戦のとき、ドイツの爆撃で被害を受けた旧コベントリー大聖堂の外壁と鐘つき塔が当時の姿そのままに残されています。祭壇には焼け焦げた材木を拾って十字架に組み合わされたものが祭られています。屋根を失った聖堂内には広島市の国際会議場にあるのと同じ「和解」の像が置かれています。これは英国の実業家リチャード・ブランソンが同じ像を両都市に贈ったのです。

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20世紀初頭、自動車産業で栄えたコベントリーには多くの自動車会社があり、戦争が始まるとそれらはやがて兵器製造の要所となっていきました。そのためドイツ軍の爆撃をたびたび受けましたが、最も激しかったのが1940年11月14日です。11時間に及ぶ爆撃で多くの人が命を失いました。その日、大聖堂も焼け落ちたのです。

しかし、コベントリーは爆撃の直後から「報復を叫ぶのではなく許しと和解で平和を」と呼びかけました。その精神は戦後の市政にも引き継がれ、平和都市として知られるようになりました。

この精神は被爆者の方々の「もう他の誰にも(敵味方関係なく)こんな思いをさせたくない」という心と通じるものです。第二次世界大戦では敵同士だった英国のコベントリーと、日本のヒロシマですが、世界平和への思いはひとつです。これからも平和を目指す市民間の交流がますます盛んになりますよう願っています。