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第2部 悲しみのふちから

中.葛藤

−被害者の父か記者か−

 まな娘が殺害された当夜、父親は記者会見に臨んだ。二〇〇四年六月、長崎県佐世保市で起きた小六女児殺害事件。報道陣のフラッシュ、マイクと向き合ったのは、当時毎日新聞社の佐世保支局長の御手洗恭二さん(48)だった。

 社内には「無理することはない」という意見もあった。しかし「逃げてはいけない」と思った。

 記者として遺族に取材した経験もある。遺族、被害者の肉声を伝えるよう部下にも指示してきた。だからあえて会見に応じた。

 しかし、心の中は混乱を極めていた。「なぜ娘は死ななければならないのか」。長女怜美さん=当時(12)=の死を受け入れられず、自分が何をしているのかさえ分からなかったという。

 記者と遺族。二つの立場の間で揺れる御手洗さんの元には、職場の仲間二人が駆け付けた。日用品の買い出しや食事の準備、洗濯…。ともに泣き、食事し、話し合う生活は一カ月半に及んだ。

▽同期がサポート

 「苦しむ仲間を放っておけなかった」。その一人で御手洗さんと同期入社の高原克行事業部長(49)は振り返る。会社も支援を認め、金銭的にサポートした。

 御手洗さんの自宅を兼ねた支局舎の隣は、佐世保署。ショッキングな事件だけに、取材合戦は過熱した。高原さんらサポートの二人は自社を含めた取材記者との接触を一切断った。「遺族は同僚」という立場を報道に安易に利用しない、との会社の判断もあった。

 当時、西部本社(北九州市)の代表室長として広報対応に当たった加藤信夫編集局長(58)は「新聞を編集する立場に立てば、伝えるべき事実はあった」と振り返る。警察からは御手洗さんに膨大な捜査情報が寄せられた。しかし、紙面には生かさなかった。

▽幹部と言い争い

 「警察が本人に情報提供しなくなることが一番怖かった。報道機関としての責任は通常の取材で果たそうと考えた」。真実を伝える義務がある、と訴える編集局の幹部と言い争いにもなった。

 「僕が記者でなければ本当に楽なんだけど…」。御手洗さんは事件直後のメモにつづった。葛藤(かっとう)の中、「遺族にとっては節目でもなんでもない」事件の一週間後や一カ月後の手記なども公表してきた。

 事件から九カ月後、西部本社福岡本部(福岡市)報道部に復帰した。デスクとして一線の取材からは退いている。「まだ事件現場などに足を運ぶ気にはなれない」と言う。

 それでも「社会の利益のため、事件報道は続けなくては」と思う。「伝えることが被害者の利益と一致するとは限らないが…。記者は常にそれを意識しながら取材してほしい」。悲しみや痛みを社会で共有していく上での課題と言える。(久保田剛)


佐世保市の小6女児殺害事件 市立大久保小で2004年6月1日、6年生の御手洗怜美さんが同級生の女児に首をカッターナイフで切られ死亡した。女児は長崎家裁の決定を受け、強制的措置も取れる栃木県の児童自立支援施設に収容された。

2006.12.25