中国新聞


島で産む幸せ再び
島根・隠岐病院、半年ぶり対応再開


 産婦人科医師不足のため、四月中旬から島内で出産できなくなっていた島根県の離島・隠岐の島町にある隠岐病院(笠木重人院長)に、同県立中央病院(出雲市)からの医師派遣が十六日、始まった。医師二人体制で、隠岐病院の本格的な出産対応が半年ぶりに再開した。

 派遣されたのは加藤一朗医師(33)。県内の産婦人科医不足を受けて内科医からの転身を決意し、研修を続けている。二〇〇〇年春から四年余り、隠岐病院など隠岐の医療機関に勤務経験がある。二十一日まで勤務し、別の医師と交代する。

 離島での一人体制は医師の負担が大きいため、県が新たな医師を確保し、県立中央病院の二人派遣体制を構築した。八月末、隠岐の窮状を知り、静岡県の病院に勤めていた船津雅幸医師(52)が十月末までの任期で産婦人科に着任。常勤医不在の事態が解消したため、当初予定していた十一月の出産再開を前倒しした。

 笠木院長は「関係者の努力に感謝している。より安全、安心な出産体制を提供したい」と話していた。十六日現在、五十九人が松江市などに渡って出産。船津医師の着任以降、早産などで五人が島内で出産している。(城戸収)

 ■「産声が途切れぬよう」 助産師ノート記す喜び

 県立中央病院(出雲市)からの産婦人科医師が十六日着任し、半年ぶりに出産対応を再開した隠岐の島町の隠岐病院。この日を人一倍、心待ちにしていた人がいる。島で唯一の助産院を開く長野千恵子さん(73)。同病院の常勤産婦人科医不在の間、助産院も休業していたからだ。「産声がもう、隠岐から途切れることがないように」。助産院も本格再開し、新たな命が誕生する瞬間に触れる喜びをかみしめている。(城戸収)

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「赤ちゃんが産める島であり続けてほしい」。出産の記録ノートを見ながら話す長野さん

 隠岐病院から歩いて十分ほどのところにある長野助産院。診察室で、長野さんは茶色く変色したノートをめくった。開業した二十五年前からの出産記録だ。助産院で取り上げたのは八百九十九人。一九五八年に助産師になってからは「少なくとも三千人以上」。よく覚えていない、と笑う。

 祖母、母と同じ助産師の道を選んだ。東京の病院に勤めた後、六二年から十八年間、隠岐病院に勤務。母の看病のため退職した。「助産院を開いたら」。一年後、ふいに言われた母の一言が背を押した。「一生懸命やっていたつもりでも、意欲がわいていないことが分かったんでしょう」。緊張と感動が連続した日々が忘れられなかった。天職だと気付いた。

 今年四月、島から産婦人科医がいなくなり、助産院でも妊婦の受け入れを断らざるを得なかった。急きょ帝王切開が必要となった時など、万一の時に対応できないためだ。十月一日が予定日だった長女(31)の里帰り出産も断念した。

 隠岐病院が出産を休止したこの半年間、島外で出産した妊婦は五十九人に上る。島に残した幼い長子を気遣い、なじみのない土地で子を産み帰った母親たちから話を聞くと、島で産める幸せをあらためて思う。「家族のそばで新たな命を出迎えることがどれだけ大切か。当たり前だったことができなくなったんだから」

 九月十六日。助産院で八百九十九人目の赤ちゃんの産声が響いた。島内で約五カ月ぶりの出産となった。その三週間前、静岡県から隠岐病院に十月末までの任期で産婦人科医の船津雅幸さん(52)が赴任。医師二人体制が望ましいと病院での出産は休止中だったが、医師の存在が赤ちゃんを取り上げることを決意させた。

 今も、島から産婦人科医がいなくなる日が訪れる不安は消えないという。半世紀にわたり、島のお産を支えた自らも、現役を終える時はそう遠くないと感じている。「もう一踏ん張り。赤ちゃんからパワーをもらっているから、きつい仕事と感じないんですよ」。年末まで五件の予約が入った。記録ノートの空欄が、また埋まり始める。

(2006.10.17)


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