中国新聞社

2000/6/23


5組・入田正子さん 妹あての手紙
 5組の入田正子さん(12)は、5月12日に世羅郡東村(甲山町)に集団疎開した己斐小5年の妹澄子さんあてに近況や家族、広島の様子を記した便り=写真=をたびたび送っていた。戦時下をひたむきに生き、原爆で倒れた少女の心模様が映し出される。遺族の了解を得て原文の一部を抜粋、紹介する。遺品となった手紙・はがきは父茂雄さん(70年死去)が、すべて原爆資料館へ寄贈した。
 澄子ちやん、始めてのお手紙ありがたう。元氣一ぱいとの事何よりです。お父さんを始め家の人は皆元氣で廣島の地を護(まも)つて居ます。

 お姉さんも此(こ)の頃(ごろ)は疎開された家の後かたずけに行つたり少しでもお國の為に一生懸命働いて居(お)ります。

 一日一日にする行ひは、皆、天皇陛下の御為、お國の為です。ですから、どんなにつらい事でも喜び、がまんしてしなければなりません。(略)

 警報は、日に何度となく發令(はつれい)せられにくい敵機は神のお生みになつたこの尊い本土をけがしてゐます。が、お姉さん達は少しも弱つて居ません。勝利の日まで、私達に當(あた)へられた任務をたゞたゞ果(た)すことだけです。(略)

=5月18日付

 (略)きのう今日しとしとと細い糸のやうな春雨がお庭の防空壕(ごう)の上に畠の上に降り注いでいます。つゆに入るのでせう。本当にいやな雨です。そちらの田舎は降つてゐますか。ですけどお百姓さんの事を思へばいやだなど一口もいへません。 (略)

 お姉さん達はまた作業に出て行つてゐます。ほこりの中に立ち一生懸命働いて居ます。働(い)た後のお辧當(べんとう)のおいしさと言つたらありません。これもお國の為勝ち抜く為だと喜んでしてゐます。

=5月22日付

 澄子ちやんお元氣ですか。家の人も皆元氣です。お姉さんは、かぼちやを作るのに一生懸命です。それから此の間かぼちやを一貫目(注・3・75キロ)作るのだと書きましたが、あれは十貫目のまちがひでした。ですからお庭のすみからすみまでかぼちやだらけです。もう、め花が咲きました。ヒマも大きくなりました。千なりうりと言ふのも植えて居ます。かぼちやとうりの棚を作りました。さつまいもも植えて居ますよ。(略)

=6月10日付

 長い間お手紙出さないでごめんなさいね。空襲も日に日にはげしくなつてまいりました。きのふ(二十四日)の空襲の時は何も傷一つ受けませんでした。今も空襲警報が朝っぱちから發令されて居ます。今はその最中です。(略)
 家のミシンも洋服ダンスも疎開しました。お座敷の机も水屋も疎開させます。此頃は旭橋のそばで水泳がもう始まつてゐます。市女のプールの水もかへましたからもうすぐ泳ぎます。まだ一度も泳いでいません。そちらは大變よい所だそうですね。お母さんに聞きました。では暑さに向いますからお元氣で。
 さやうなら 澄子ちやんへ
正子より

=7月25日付

入田 正子(12)
 広島市己斐中町の鉄道官舎己斐小8月6日遺骨は不明。前日から芦品郡府中町(府中市)に出張していた広島鉄道局審査課長の父茂雄は6日午前9時ごろ、広島への鉄道電話の不通などから異変を知り翌日、芸備線回りで戻り、官舎から動員に出た他校生徒の親たちと似島なども捜す。爆心1・2キロの女学院高女に移っていた職場で爆死した学徒を含む14人を収容。法要の席で詔勅を聞いた15日、学校を訪ね分骨を受け取る。世羅郡東村(甲山町)に集団疎開していた小学5年の妹澄子は「姉は本を読んだり絵を描くのが好きな文学少女で、よく手紙を送ってくれました。父は、姉の遺品を寄贈することで気持ちを整理しようとしたのだと思います」。98年の原爆資料館の特別展で、53年ぶりに姉からの便りに接した。
1組 2組 3組 4組 5組 6組 教員 新たに確認された死没者名簿 昭和20年8月6日罹災関係 経過日誌