中国新聞社
2000/5/8

ヒロシマの記録-遺影は語る
  元柳町


死没者名簿

 大下(おおしも)早人(53)
 繊維卸遺骨は不明。自宅は元柳町2番地妻と2人暮らし。

 妻 アサカ(43)
 遺骨は不明。爆心約2キロの打越町(西区)で被爆した82歳になる妹の宮本アキヨは「姉とはひと回り以上年が離れ、夫婦に子どもがいなかったので、よく泊まりがけで遊びに行っていました。店先には西洋タオルがうずたかく積まれ、若い2人の住み込み店員さんが自転車で配達していました」。(注・いずれも遺影なし)

上田 靜子  上田 靜子(53)
 繊維雑貨卸「上田商店」爆心700メートルの猫屋町の医院で被爆し、南側の舟入町辺りにいたのを夫留吉が7日に見つけ、運んだ江波本町(中区)の別宅で15日死去。店は元柳町6番地の1沼隈郡水呑町(福山市)の陸軍船舶機関砲部隊にいた長男良三は「母は孫雄三の入院に付き添っていたそうです。元柳町は、呉服やタオルなど繊維製品の卸問屋が軒を連ね、私のところは肌着などのメリヤス製品を扱っていました」。

孫 野村 雄三  孫 野村 雄三(7)
 袋町小2年江波本町で14日死去。母が4月に病死したため祖父母宅に住み、8月初めから体調を崩していた。





大辻 和兵衛  大辻 和兵衛(50)
 呉服商「めいせんや」本通りに面する大手町1丁目(中区)の自宅が建物強制疎開となり、知人の上田商店宅へ7月29日に移り、そこで爆死したとみられる。遺骨は不明娘との3人。爆心1・8キロの第二総軍司令部(東区二葉の里)に動員されていた女学院高女2年の二女宣子は「父は、母と妹や弟たちを御調郡向島西村(向島町)に疎開させ、『5日から6日にかけ、布団など荷物を持って行く』と知らせていました。空襲警報が前夜から続いたあの朝、司令部へ向かう私に『空襲になったら吉田さんの家に行きなさい』と、今の廿日市市にあったお得意先で落ち合うよう言ったのが別れになりました」。

長女 熙子  長女 熙子(ひろこ)(15)
 広島市女(現・舟入高)4年遺骨は不明。動員先が電休日だったため、自宅にいたとみられる。4年生は日本製鋼所西蟹屋工場(南区)や関西工作所(中区)に動員されていた。



樽田 卓雄  樽田 卓雄(49)
 莫大小(メリヤス)中央配給統制会社広島出張所長自宅があった堺町1丁目(中区)の国民義勇隊として、市役所そばの雑魚場町(中区国泰寺町)一帯の建物疎開作業に動員され爆死。弟篤磨が7日、広島一中(現・国泰寺高)校庭で、ズックに書いていた名前により遺体を確認。弟の妻千代枝は「夫は義兄のなきがらを見つけると、遺体整理の兵隊から軍刀を借り、腕のひじから先を切り落として納めたと聞いています」。上田商店に41年春設けられた出張所=写真=を預かっていた妻アサカ(47)と広島高師付属小(現・広島大付属小)2年の長男亮助(7つ)は5日に疎開していた安佐郡戸山村(安佐南区)から帰宅し、爆死。





 【森永食糧工業(現・森永製菓)広島支店職員

芦原 金之助  芦原 金之助(52)
 元柳町18番地の広島支店=写真=に向かい、遺骨は不明。爆心2キロの南観音町(西区)の自宅で下敷きになった呉海軍工廠(しょう)勤務の長男伸一は「1週間後から、父が通勤していたと思われる道順に沿って、防火水槽や防空ごうの中の遺体を一つひとつ確かめ、やむなく支店跡にあった骨のかけらを納めました」。

東 次郎  東 次郎(47)
 爆心900メートルの県庁北側の建物疎開作業に動員されていた。遺骨は不明。東観音町1丁目の自宅で被爆した二女房子は「亡き母の話では、父は上司の代わりに出たそうです。大戦中は、給料の一部として粉乳やキャラメルを受け取り、それを食糧と交換していました」。(注・肖像画)長女須美子(19)は支店北側の中島本町にあった「二葉軒撞球場」で爆死、西部第二部隊にいた四男義明(17)の遺骨は不明。

安福 明人  安福 明人(37)
 庶務会計課長を務めていた支店で爆死。弟明夫が7日、支店跡で腰に着けていた金庫のかぎから遺骨を確認。自宅は西観音町2丁目。母たちと安佐郡小河内村(安佐北区)に疎開していた小学1年の長男孝昭は「4月に疎開先を訪れた父を交えて一家6人で花見をしました。私たちに『頑張れよ』と言ったのが最後の言葉となりました」。

上原 澄子  上原 澄子(21)
 古田町(西区)の自宅から出勤し遺骨は不明。43年に15歳で志願し、長崎県の大村海軍航空隊で敗戦を迎えた弟義一は「私の一命と引き換えに敵の軍艦を1隻でも沈めれば家族を守れると信じ、特攻に待機していました。8月23日に復員して姉の死を知りました。翌日に母の案内で支店跡を訪ね、そこにあった骨を姉だと思い納めました」。

江山 宇目子  江山 宇目子(26)
 爆心1・4キロの横川町1丁目(西区)の工場に出勤して爆死。横川町3丁目の実家で一緒に暮らしていた義姉牧村君子が遺骨を確認。君子の長女功子は「叔母は結婚して島根県鹿足郡津和野町にいましたが、夫の戦死と一人息子の病死で実家に戻り、横川工場長だった親類の松井さんの口利きで勤めていたそうです。叔母の遺骨は、夫と長男が眠る津和野町に納められています」八百屋を営んでいた父牧村繁蔵(63)は野菜を仕入れに出て遺骨は不明。母クニ(55)は自宅で下敷きとなり死去。

片山 チヨコ  片山 チヨコ(26)
 遺骨は不明。西観音町1丁目の自宅で祖母と被爆した当時1歳の長男佳壮は「私が20歳の年に他界した父の葬儀で、物心ついて以来初めて会った祖母から、生みの母がおり原爆で死んでいたのを知らされました。父も、わが子同然に育ててくれた母も私を気遣い、明かさなかったのだと思います」。



佐藤 早  佐藤 早(はやし)(29)
 空襲で焼けた呉出張所から7月に広島支店へ転勤となった。遺骨は不明。郷里の深安郡春日村(福山市)にいた妻都と子どもの5人を呼び寄せ、8月4日から打越町に住んでいた。81歳になる都は「義父が、殉職社員の名前を書いた立て札が立っていた支店跡で、白木の箱入りの分骨を受け取りました。4人の子を連れて逃げるのが精いっぱいで夫を捜すことすらできませんでした」三男教明(2つ)は爆心2キロの自宅で被爆し、翌46年2月9日死去。

品川 昌夫  品川 昌夫(33)
 7月下旬に再び召集となり、第二特設警備隊がいた爆心1・1キロの広瀬小(中区)で被爆し、妻マスヨと子どもの3人が疎開していた安佐郡落合村(安佐北区)で9月7日死去。81歳になるマスヨは「被爆後は五日市町(佐伯区)にあった事務所に通っていましたが、9月に入って突然に血を吐き始め、2リットルにもなったでしょうか…。最期は『社長が来ており会議に出なくては』とうわ言を口走り、カバンのつもりでまくらを持って起き上がるほどでした」。翌46年2月、三女が誕生。

寺本 初子  寺本 初子(39)
 住み込み勤務の支店で爆死。夫の弟幹男らが11月ごろ調理場跡を掘り返して遺骨を見つける。義弟は「兄が召集されるまで夫婦で社員食堂の調理係を務めていました。兄は戦後に届いた戦死公報で44年10月28日に南方への輸送船ごと消えていたのが分かりました」。



古田 シズヱ  古田 シズヱ(27)
 安佐郡祇園町長束向地(西区大芝3丁目)の自宅から出勤し、遺骨は不明。同居していた義姉茂子は「私の幼かった子どもたちに、会社から配給されたビスケットや粉ミルクを持ち帰り、ほほ笑んでいたシズヱさんの顔が今でも目に浮かびます」。



松井 學  松井 學(さとる)(36)
 遺骨は不明。横川工場長を務め、自宅は横川町2丁目。山口県佐波郡右田村(防府市)に母たちと疎開していた二女渥子は「父は、横川町の国民義勇隊として小網町(中区)の建物疎開作業へ出る前に『工場が気になるので寄って行く』と、祖母に言ったそうです。製菓工場は当時は軍に徴用され、『八折雪駄(やつおりせった』という、呉海軍工廠の工員さんが軍艦上での作業に使う履物を作っていました」長女の広島女子商業学校1年倫子(12)は、鶴見橋一帯の建物疎開作業に動員されて遺骨は不明。

 森永製菓広島支店が保存する「原爆殉職社員第七回忌法要」の物故社員名簿によると、このほか、▼中国四国支部兼広島支店配給課長、手塚榮治▼配給係主任、山合順一▼庶務係主任、佐藤荘六▼軍需品係主任、村上久男▼社員、佐々木敏子▼西村美雄▼広島売店長、杉沢嘉三郎▼売店女史監督、山本静江▼山本明子▼氏名不明2人の11人が死亡。氏名不明の1人は今回、元柳町に住み堀川町(中区)にあった広島売店に勤務していた梶川正子と分かった。被爆状況を確認した11人と合わせると、森永食糧工業の被爆死者数は計22人。

中本 栄一  中本 栄一(63)
 中本貴金属店元柳町19番地の自宅で爆死。結婚して山口県にいた長女木谷君代が捜しに入り、台所跡で金歯により遺骨を確認妻子との5人全員が死去。陸軍通信兵として韓国・釜山の山中にいた三男栄次郎は「父と母は抱き合うような格好で骨になっていたそうです。商売は『打ち直し』といって、古くなったキセルやかんざしなどの小物を溶かし、新たにするのが仕事でした」。

妻 ユリ  妻 ユリ(46)
 夫と爆死。





長男 靜男  長男 靜男(32)
 自宅で被爆後、芸備線を使ってたどり着いた高田郡吉田町の親類宅で13日死去。弟栄次郎は「兄は病弱だったため召集されていませんでした」。





 五男 啓二(15)
 三菱重工業広島機械製作所勤務出勤途中だったとみられる。遺骨は不明。(注・遺影なし)

六男 卓二  六男 卓二(7)
 中島小2年爆死。





伊井 清三郎  伊井 清三郎(43)
 厚生新薬(現・カイゲン)勤務土手町(南区比治山町)の自宅から元柳町の事務所へ出る途中だったとみられる。遺骨は不明。松川町(南区)の分散教室で被爆した小学4年だった長男賢司は「父は、広島の責任者として経営を任されていました。近眼がひどく兵隊にとられなかったので家族は安心していたのですが…」。厚生新薬は、広島で18年ごろに創製されたお茶で飲む風邪薬の『改源』の販売元で知られた。

中下 カネ  中下 カネ(55)
 酢・しょうゆ製造南隣の中島新町55番地の自宅一帯が建物疎開となり、転居したばかりの元柳町23番地の中川宅で爆死。大八車を借りに吉島町(中区)へ行っていた夫七兵衛が、金歯から遺骨を確認運送店を営んでいた中川家族が1週間前に佐伯郡宮内村(廿日市市)に疎開した後、夫と娘との4人で入居していた。孫の勝子は「31年前に他界した祖父は、毎朝7時と夕方5時の2回必ず仏前でお経をあげ、言葉で表せない無念さを念仏に込めていたと思います」。

五女 富士子  五女 富士子(20)(左)
 県内政部会計課勤務爆心900メートルの庁舎で被爆し、運ばれた己斐小(西区)の救護所で死去。

 六女 富貴子(17)(右)
 実践高女(現・鈴峯女子高)自宅で爆死。





 二井谷 敏夫(26)
 綿布卸「二井谷合名会社」元柳町1番地の自宅で爆死。弟彰が11日、自宅跡で遺骨と、古田町に家族で疎開していた父爲助が6日朝に届けた弁当箱の焼け残りを見つける。中島本町25番地の会社を預かり、1人で住んでいた。

 妹 春子(12)
 山中高女(現・広島大付属福山高)1年市役所そばの雑魚場町一帯の建物疎開作業に動員され、運ばれた似島で9日死去。(注・遺影はいずれも99年8月3日付の「中島本町Ⅱ」編で掲載)

田邉 昇作  田邉 昇作(56)
 田邉旅館妻と泊まりがけで訪ねていた佐伯郡五日市町の親類宅から帰宅する途中だったとみられる。遺骨は不明妻と2人。46年に中国から復員した長男忠司と結婚した妻幸子は「亡き夫は、宮島線の己斐駅で両親と出会った知人から、午前8時ごろ市内電車に乗り換えたと聞いたそうです。母の郷里である高田郡根野村(八千代町)へ疎開を進めており、トラックの都合がついた6日に最後の荷物を出すことになっていました」。

妻 シズヱ  妻 シズヱ(53)
 夫とともに爆死し、遺骨は不明。





 山田 君子(29)
 「成宮商店」お手伝い住み込みで働いていた元柳町8番地の成宮宅で爆死したとみられる。遺骨は不明。横川町に住んでいた妹藤本安子は「姉は『あなたは子どもがいるのだから帰りなさい』と郷里の三原市への疎開を勧め、5日に私と長男を実家まで送り、引き返しました。母と兄が、成宮さん宅の跡で見つけた愛用のはさみを遺骨代わりに納めました」。(注・遺影なし)

本持 雄  本持 雄(もともち・たけし)(34)
 県繊維製品配給株式会社勤務元柳町13番地にあった織物雑貨の卸「成宮商店」を中心に42年3月発足し、同店に置かれた配給会社に引き続き勤めた。遺骨は不明。自宅は東観音町2丁目。母らと愛媛県西条市に疎開していた小学6年の長女栄枝は「父は自宅玄関に置いていた靴を盗まれ、地下足袋で疎開先を訪ねて来て、8月1日広島に戻りました。母が1週間後に捜しに入ると、自宅西向こうの天満川土手のかわらの上に数体の遺骨が並べてあり、『35、36歳の地下足袋の男』と書かれた札がある骨を納めたそうです」。

柳田 笹一  柳田 笹一(53)
 同舟入仲町(中区舟入中町)の自宅から出勤し、遺骨は不明。9月末に埼玉県から復員した二男武典は「亡き母の話では、父は朝8時ごろに家を出たそうです。母と一緒に会社から小さな木箱に入った骨のかけらを受け取りました」。



新甲  新甲 (47)
 呉服商「モスベン」経営成宮商店にあった市寝具奉公会事務所に出て爆死。自宅は堀川町71番地呉市にいた岡山医科大(現・岡山大)1年の長男洋が9日ごろ、店跡で見つけた数体の遺体のうちから金歯で確認。「安芸郡府中町から佐伯郡平良村(廿日市市)、似島と救護所を捜して回り、覚悟を決めて元柳町に向かいました。敷石を頼りに店の跡のがれきを掘り返すと数体の人骨が現れ、父は腰と大たい部の肉が焼け残っているほかは白骨になっていました」。市寝具奉公会は、空襲被災に備え布団を支給するため市内約20軒の呉服商で組織し、店の一部に事務所兼倉庫を置いていた。

 岩間 カズノ(年齢不明)
 フレンチ・アメリカン洋裁学校元柳町15番地の自宅で爆死。佐伯郡五日市町に出かけていた夫寅生が遺骨を確認夫と義母との3人のうち2人が死去。おい孝は「昨年他界した兄が残した岩間家の覚書によると、伯母が営んだ洋裁学校は木造3階建てで広島市外からも生徒が来ていたそうです。日米開戦後は、校名が敵国名だとの理由で廃校を命じられ、家屋は憲兵隊宿舎に徴用されました。安佐郡緑井村(安佐南区)の実家にいたのが、原爆の前に徴用が解除となり戻っていました」。(注・遺影なし)

義母 ムメ  義母 ムメ(65)
 自宅跡で遺骨が見つかる。自宅の徴用で身を寄せていた東京の四男宅から帰郷していた。





 (うえさこ) 良助(49)
 中国憲兵隊宿舎「清風寮」管理爆心500メートルの憲兵隊司令部(中区基町)へ炊事仕事に出て爆死。比婆郡庄原町(庄原市)から43年、フレンチ・アメリカン洋裁学校を徴用して設けられた「清風寮」の管理人として家族で移る8人家族のうち妻子との7人が住み、5人が死去。小学6年で庄原町の伯父宅に縁故疎開していた三女満子は「寮の前にあった森永製菓の基礎跡が今年2月に出てきたとのニュースを知り、矢も盾もたまらずに訪ねました。土を持って帰り、両親たちが眠る墓に納めました」。

 妻 シケヨ(45)
 清風寮勤務1階の自宅にいたとみられる。

 長女 久江(19)
 広島第二陸軍病院勤務基町にあった病院にタイピストとして出勤していた。

 四女 シズエ(7)
 中島小1年1、2年生は材木町の誓願寺の分散教室に通っていた。

 五女 園江(3)
 自宅にいたとみられる。姉の満子は「原爆の後に軍から父と姉と言われた骨を、元柳町のお世話をする人から受け取りました。白い陶器にふたかけらほど入っていました。家族の写真は親類を探せば1人、2人はあるかもしれません。それより全員がないままの方がいいと思って、それで持っておりません」。(注・いずれも遺影なし)

《記事の読み方》死没者の氏名(年齢)
職業遺族がみる、または確認した被爆状況原爆が投下された1945年8月6日の居住家族(応召や疎開中は除く)と、その被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく。年数は西暦(1900年代の下2けた)。(敬称略)

高橋 粂太郎  高橋 粂太郎(59)(右)
 旅館「共栄館」疎開していた佐伯郡井口村(西区)から元柳町16番地の自宅に妻と戻り、遺骨は不明妻子との3人のうち2人が爆死。爆心2キロの広島工専(現・広島大)で被爆した3年の二男知之は「旅館は原爆の前年に閉めていました。自宅の下敷きになった母から『お父さんの名前を呼んだが、返事はなかった』と聞きました。父は好きだった川釣りに出ていたと思います」。

 妻 サト(55)(左)
 ふろ場を掃除中に下敷きとなり、自力でたどり着いた井口村で13日死去。

山瀬 優  山瀬 優(57)
 山瀬歯科三男と開業していた元柳町24番地の医院で下敷きとなり、本川河原の防空ごうで夜を明かす。翌7日、大八車で捜しに来た親類が安芸郡船越町(安芸区)に運ぶが、10日死去妻や三男夫婦、四男との5人のうち4人が死去。広島工業学校(現・県工業高)の校舎を徴用していた呉海軍工廠造船実験部に動員されていた、広島工専2年の四男明は「原爆の瞬間、父と兄は2階の診察室でその日の準備をしていたそうです。兄は船越町まで歩いて父に付き添うほどでした。しかし、体中に紫の斑点(はんてん)が広がった父の後を追うように死にました」。

妻 ミツノ  妻 ミツノ(55)
 自宅にいたとみられるが、遺骨は不明。





三男 武  三男 武(29)
 歯科医船越町の妻の実家で13日死去。





三男の妻 笑音  三男の妻 笑音(えみね)(23)
 台所跡で遺骨が見つかる。





金光 朗子  金光 朗子(あきこ)(19)
 昭和町(中区)の自宅が7月に建物疎開となり、元柳町26番地の成田歯科医院=写真=に父喜一郎たちと転居し、爆死。神戸市に出張していた保険会社勤務の父が戻り、遺骨を確認父と弟との3人。成田歯科の家族は翠町(南区)に住み通っていた。岡山県和気郡熊山村(赤磐郡瀬戸町)の親類宅で暮らしていた姉発美恵は「妹は胸を患っていました。父や学徒動員で三菱の造船所に出ていた弟を送り出した後はいつも休んでおり、そのままの格好で白骨になっていたそうです」。

山中 徳義  山中 徳義(36)
 汪屋(たまや)山中洋服店自宅は元柳町27番地。警備召集で就いていた広島陸軍偕行社(中区八丁堀)から爆心1・5キロの西天満町(西区)の東洋製罐へ向かう途中だったらしい。遺骨は不明妻子との3人暮らしで、妻子は安佐郡小河内村の実家を泊まりがけで訪ねていた。弟茂樹は「私は前年に結婚するまで兄家族と同居し、住み込み店員4人と背広の仕立てをしていました。京都から生地を取り寄せ、集金に宮島や宇品を回ったりと、店は戦況が険しくなるまでは繁盛していました」。

市川 佐與吉  市川 佐與吉(59)
 市川内科小児科勤務先の中国地方総監府(中区東千田町1丁目)で被爆した三女耐子が7日、元柳町28番地の自宅兼医院跡に入るが、遺骨は不明家族4人とお手伝いの計5人のうち3人が爆死。三女は「父は、空襲警報のサイレンが鳴ると上田商店の前にテントを張った救護所に向かっていました。前夜から続いていた警報が解除となり、私が朝7時40分ごろに家を出た時は父の姿は見当たりませんでした。本川の土手で助けを求めていたと人づてに聞きました。多分、川に流されたのだと思います」。

妻 豊子  妻 豊子(50)
 中庭跡で8日、遺骨が見つかる。





大西 八重  大西 八重(59)
 お手伝い遺骨は不明。娘家族が住む佐伯郡大柿町を泊まりがけで訪ね、5日晩に住み込んでいた医院に戻っていた小学3年だった孫美寿子は「母が洋裁の仕事で忙しく、よく祖母のもとで過ごしました。本川で水遊びして服をぬらすと、祖母は自分の腰巻きを私に着せてくれました。8月6日には本川で手を合わせています」八重と医院で一時暮らし、寮に移っていた進徳高女2年の孫トシヱ(14)は、爆心1・4キロの校庭で建物疎開作業へ出る準備中に被爆し、大柿町の実家で23日死去。

 杉本 九一(45)
 日本通運広島支社勤務借りていた市川内科小児科の別棟で、叔父らが上着の切れ端などを見つけるが、遺骨は不明山口県玖珂郡南河内村(岩国市)に縁故疎開していた小学4年の五男省三は「がれきの下に父が出勤に使っていた自転車の残がいがあったそうです。おそらく家にいたと思います。幼いころ母を亡くしてからは、父と兄の3人で暮らしていましたが、私の疎開に続き兄は召集で朝鮮半島へ行き、家族離ればなれになっていました」。(注・遺影なし)

宮本 ミユキ  宮本 ミユキ(35)
 宮友運送店元柳町29番地の自宅で被爆し、目の前の本川に係留していた木船に逃げる。広島沖に釣りに出ていた5軒南隣に住む橋本一雄が船で7日入って見つけ、ミユキの祖母がいた己斐町に運ぶが、9日死去母と2人暮らし。いとこの光本恵美子は「ミユキさんの夫の三一さんは召集でいた大阪の工兵部隊から公用の腕章を借りて戻り、最期をみとりました。ミユキさんはふろ場で洗濯中に下敷きとなり、一緒にいたお母さんが見つからず、船で一晩明かしたそうです」。

母 ハツノ  母 ハツノ(59)
 遺骨は不明。めいに当たる美恵子は「炊事場跡には数体の遺骨があり、どれが伯母か判別できなかったと聞きました」。





福原 信子  福原 信子(23)
 県地方木材株式会社勤務遺骨は不明。宮友運送店2階に6月から弟と下宿し、職場は猿楽町15番地の県産業奨励館(原爆ドーム)2階にあった気象技術官養成所(現・気象大学校)の実習生として、爆心3・6キロの広島地方気象台に出て被爆した弟賢治は「姉も東京で働いていましたが、私が郷里の広島で実習することになり、幼いころ家族で住んでいた元柳町に下宿を求めました」。

西口 春男  西口 春男(35)
 西口理髪院元柳町38番地の自宅兼店にいたとみられる。遺骨は不明妻キヌヨは2人目の出産を控え、長男を連れて7月初めに夫の郷里である佐伯郡三高村(沖美町)に疎開していた。87歳になるキヌヨは「夫は徴用されていた安芸郡海田市町(海田町)の鉄工所で左手にけがをし、6日は工場近くの医院で抜糸するはずでした。18日に長女が生まれた戦後は三高村で、夫から見よう見まねで覚えた腕により出張理髪を始め、48年に免許を取りました。71歳で引退するまで理容師の道を歩みました」。

白川 ノブエ  白川 ノブエ(36)
 元柳町31番地の自宅で被爆し、本川左岸にいたところを勤務先の呉海軍工廠から戻った夫清らが見つけ、運んだ郷里の比婆郡庄原町の病院で20日死去一家5人のうち4人と、訪ねていたいとこの二男の5人が死去。おい昌玄は「私の母と8日ごろに入ると、叔母は本川の雁木(がんぎ)に腰をぐったりと落とし、『祐(ひろし)、祐』と、家の下敷きになって死んだ息子の名前を繰り返し呼んでいました」。

 長女 慶子(17)
 本川小勤務爆心410メートルの本川小に給仕係として勤め、職員室跡で遺骨が見つかる。(注・遺影なし)

 二女 立子(14)
 本川小高等科1年動員されていた爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業現場跡で、名前が刻まれたアルミ製の弁当箱とともに遺骨が見つかる。(注・遺影なし)

 長男 祐(12)
 修道中1年自宅で爆死。1年生は前日まで市役所南側の建物疎開作業に動員されていたが、当日は休養日だった。(注・遺影なし)

いとこの二男 橋木 啓二  いとこの二男 橋木 啓二(17)
 広島工専1年己斐町の下宿先からノブエ宅に泊まりがけで訪ねて爆死。比婆郡小奴可村(東城町)に住む父賢五郎らが遺骨を確認。46年に中国から復員した兄清は「ノブエさんが言い残したところでは、下宿に帰る弟と玄関で立ち話をしていた最中に下敷きとなったそうです。弟は昼間は働きながら中学は夜間に通い、その年に工専に入学したばかりでした」。

堀毛 良一  堀毛 良一(推定40代)
 紋屋本川左岸の自宅で被爆し、自力で養母が疎開していた安佐郡祇園町の親類宅にたどり着くが、12日死去妻と2人が死去。東隣の材木町26番地に父と姉がいた、いとこの奥田文枝は「夫とその日昼すぎに入ると、良一さんは土手にあった防空ごうにいた。額は横一文字に裂け、『寒い』と繰り返していました。相撲取りに負けないくらいの体をしていたので運ぶことができず、持参したむすびと浴衣を置いて、父や姉を捜しに向かいました」。

 妻 政子(30代)
 遺骨は不明。自宅にいたとみられる。(注・遺影なし)

宍戸 秀子  宍戸 秀子(38)
 フレンチ・アメリカン洋裁学校勤務元柳町43番地の自宅で下敷きとなり、陸軍船舶司令部隊が運んだ神崎小(中区)で12日死去子どもとの4人のうち3人が死去。海軍軍医だった夫が41年死去し、京都府東舞鶴市(舞鶴市)から実家があった材木町西隣の元柳町に戻っていた。爆心約2・5キロの桐原容器工業所(中区舟入南4丁目)で被爆した山陽中3年の二男昌秀は「4日後に救護所となっていた神崎小でやっと母を見つけました。治療も受けられない中、『苦しい』と言い衰弱していく母の手を取り、うちわ代わりに厚紙をあおぐくらいしかすべはありませんでした」実家の材木町27番地の田中紙器印刷所では母田中ユキ(53)、弟勢太郎(26)、叔父香苗(52)、東隣では妹松崎宮子(28)が爆死。



長男 俊秀  長男 俊秀(17)
 山陽中5年弟昌秀が遺骨を確認。弟は「兄は呉海軍工廠に動員されていましたが、胸を患って自宅で静養していました。母の話では、原爆の瞬間は2階で横になっていたそうです」。



 長女 巴(6)(右)
 中島小1年材木町の誓願寺にあった分散教室に向かい、遺骨は不明。

兼本 ウメ  兼本 ウメ(46)
 元柳町44番地の自宅跡で、徴用先の三菱重工業広島機械製作所で被爆した夫金次郎が9日ごろ遺骨を確認夫と子どもとの4人のうち3人が死去。金次郎と再婚したイツヱは「徴用前は、今の平和記念公園レストハウス西隣にあった呉服の大津屋さんに勤め、お針子のウメさんと知り合ったそうです。夫が22年前に逝った後は、代わって供養を続けております」。

長男 節  長男 節雄(16)
 広島一中4年遺骨は不明。学校史によると、4年生は旭兵器製作所地御前工場(廿日市市)に動員とあり、原爆死は6人。イツヱは「夫から生前に聞いた話では、『家を壊しに行くのは嫌なんじゃが…』と雑魚場町の建物疎開作業に出たそうです」。



 長女 惠美子(11)
 小学6年自宅跡で遺骨を確認。(注・遺影なし)

梶川 定男  梶川 定男(29)
 タクシー運転手十日市町(中区)にあった事務所で被爆し、安佐郡方面に向かう救援のトラックで運ばれた伴村(安佐南区)の実家で28日死去妻イワ子と長男との3人で市川医院に間借りし、被爆時は斜め前の元米穀店に転居していた。2人目の子どもの出産を控えて安芸郡奥海田村(海田町)の実家に疎開し、6日は伴村を訪ねていたイワ子は「夫は、私たちが無事なのを見て『生きていてくれてよかった』と言いました。それが、お盆をすぎて歯ぐきからの出血や脱毛が止まらなくなり、9月に生まれた長女を抱くことなく死にました。その後、元柳町に住んでいた妻を失った定男の兄と家庭を持ちました」。

平 清子  平 清子(33)
 元柳町48番地の自宅で爆死。勤務先の三菱重工業広島機械製作所で被爆した夫文雄が7日、遺骨を確認夫と子どもの5人のうち4人が死去。中島小5年で双三郡吉舎町の療養所に学童疎開していた克子は「父は10日ごろ迎えに来て、広島の様子を皆に知らせました。私には母と弟が死んだのはなかなか言わず、聞いたのは療養所の寝間に就いてからでした。自宅跡に戻ると防火水槽に、焼けて腹が膨れた馬がはまり込んでいました」。

長男 正明  長男 正明(10)
 中島小3年炊事場跡で、弟二人とともに遺骨が見つかる。





二男 賢二  二男 賢二(7)
 爆死。





三男 晃暢  三男 晃暢(6)
 爆死。





 福田 長次郎(45)
 広島郵便局郵便課勤務元柳町31番地の自宅から爆心直下となった細工町28番地(中区大手町1丁目)の局に出勤し、遺骨は不明妻子との4人が爆死。芦品郡有磨村(福山市)の叔父宅に疎開していた、小学4年の二男幸作は「戦後は子どものいない叔父夫婦の世話になりました。戦災孤児とみられるのが嫌で、中学校を卒業すると鉄工所に勤め、今は東大阪市で義兄と空調機器の製造会社を営んでいます。とにかく前へ前への一心で生きてきました」。(注・遺影なし)

妻 ツルヨ  妻 ツルヨ(37)
 遺骨は不明。自宅にいたとみられる。





長男 治行  長男 治行(12)
 遺骨は不明。動員作業に就いていたらしい。





 三男 稔(4)
 遺骨は不明。(注・遺影なし)

梶川 正子  梶川 正子(31)
 森永食糧工業広島支店勤務元柳町48番地の自宅から爆心900メートルの堀川町にあった広島売店に出勤し、遺骨は不明正子と義理の姉妹になり、47年にマレー半島から復員した正子の夫順三と結婚したイワ子は「正子さんは三篠本町(西区)の実家に子どもたちを預け働いていました。幼いころは私を『お姉さん』と呼んでいた娘2人を嫁に出すまでは、正子さんの分まできちんと育てなくてはとの気持ちでした」と、孫12人とひ孫5人を持つようになる再出発を振り返った。

長男 義則  長男 義則(7)
 三篠小2年三篠本町3丁目の母の実家から登校した校庭で被爆し、疎開先の三滝町(西区)で10日死去。





天野 一子  天野 一子(21)
 県衛生課勤務遺骨は不明。元柳町の下宿先から爆心900メートルの県庁に出ていたとみられる小学5年だった妹一代は「位はいには、姉は忠海高女と岡山県高女専門部、広島県保健婦養成所を卒業し、県衛生課に勤めたとあります。亡き父から聞いた話では、退職して三原市の実家に戻るつもりで、荷物を移していたそうです」。『広島県庁原爆被災誌』(76年刊)の県職員原爆犠牲者名簿には記載漏れになっている。