中国新聞社

2000/2/21

ヒロシマの記録-遺影は語る
  細工町

島病院


■ ゼロメートル地点 ■

 爆心地となった細工町29番地の2の島病院では、どれだけの人が犠牲になったのか。島薫院長の遺稿集(1983年編さん)にある回想録によると、「80人ばかりの人が亡くなった」。

 「病室は当時ほとんど満室で50人は入れました。それに、食事の支度をする患者さんの家族が付き添っていました。看護婦はいずれも住み込み。10人はいたと記憶しています」。原爆投下の前日、世羅郡甲山町への出張手術に同行していた看護婦の松田(現姓入澤)ツヤ子さん(73)は広島県内で健在であった。

 レンガ造り2階建ての病院は、6人部屋から個室までの15室を備え、困窮患者をみる木造の施療7室もあったという。敷地約1320平方メートル。その中庭で原爆投下の2年前、院長親族とともに看護婦や職員が勢ぞろいした写真が残っていた。

 「玄関の門柱そばに、黒焦げの遺体が一つだけあり、金歯から婦長の宮本さんだと分かりました。ほかの人は皆下敷きになっていたと思います」。松田さんはその夜に島院長と爆心地に戻り、袋町小に運び込まれた人たちの救護に努めた。

 松田さん=写真後列左から8人目=と、原爆の4カ月前に郷里の山口県へ帰っていた鮎川(現姓吉田)智里さん(77)=同後列左から2人目=らの証言を基に、看護婦・職員8人の遺影を確認した。鮎川さんは写真の裏に当時、名前を書き入れていた。

 島院長は子どもたちを疎開させていたが、隣町にいた妹夫婦家族の3人が亡くなった(若井家族の被爆記録は97年8月2日付の「猿楽町」続編で掲載)。爆心地跡に病院が再建されたのは3年後。「沢山(たくさん)の骨が掘り出された」と回想録は記している。