×

連載 被爆70年

伝えるヒロシマ ④ 壊滅直後の書簡・日誌 高野源進・広島県知事

 原爆で壊滅時の広島県知事だった高野源進(げんしん)氏(1895~1969年)の書簡や、海軍調査団として東京から2日後に入った北川徹三氏(1907~83年)の日誌が現存していた。1945年8月6日、米軍の原爆投下で起こった未曽有の事態に、為政者や科学者はどう立ち向かい、受け止めたのか。広島をめぐる歴史的な書簡・日誌を関連する資料もたどり、読み解く。(「伝えるヒロシマ」取材班)

9月7日「当県庁員にして既に死亡せるもの六百六名」

 高野氏は45年6月10日、大阪府次長(現在の副知事)から官選の広島県知事に就いた。知事時代の書簡は4通が現存し、いずれも内務省の先輩でもあった池田清大阪府知事に宛てていた。

 被爆後初めて記した9月7日付書簡はこうだ。

 「当地も原子爆弾の攻撃により誠に惨状の極(きわみ)に御座候(そうろう)(略)当県庁員にして既に死亡せるもの六百六名 尚(なお)相当数の死者を出すことと存じ居(お)り候 生を全うせしものの多くは出張等の為(ため)当地に在(あ)らざりし者にして…」  放射線急性障害による死者が職員の間でも続いていた。出先の警察署や消防署などを含め、犠牲者は最終的に1131人を数える。

 知事自身は8月6日は出張先の福山にいて助かり、急きょ戻った。「広島市空爆直後ニ於ケル措置大要」(市公文書館所蔵)によると、防空本部を移した比治山(現南区)の多聞院に午後6時半たどり着く。

 多聞院での様子を、県警察部特高課長だった太宰博邦氏(後に厚生省次官)が「内務省外史」に寄せている。「『長官(高野知事)も御無事で何より』と言いかけると、かたわらの石原(虎好警察)部長に『いや、長官は奥さまが行方不明だ』と言われ、言葉に窮した」

 高野知事は翌7日、焼け残った下柳町(現中区銀山町)の東警察署を臨時県庁とし、畑俊六第二総軍司令官と協議して救援策などを打ち出す。中国5県を統括する中国地方総監府の大塚惟精総監、広島市の粟屋仙吉市長は死去し、唯一の行政トップでもあった。

 泉邸(現在の縮景園)や古田国民学校(現西区)などを救護所に充て、缶詰・野菜20万人分をはじめ、いりこ1人約56グラムなどの食糧配給や、近隣郡部の各家庭から食器2点の供出を決める。同時に「吾等(われら)ハアクマデ最後ノ戦勝ヲ信ジ…」と告諭し、各所にビラを掲示した。8日後の15日、今度は戦争終結の知事告諭をする。

 妻しな子さん=当時(40)=は行方知れずだった。竹内喜三郎人事課長兼食糧課長が後に「広島県庁原爆被災誌」へ寄せた手記によると、知事は下中町(現中区中町)の官舎焼け跡に30日初めて立ち寄る。県庁は市郊外府中町の東洋工業(現マツダ)に移していた。

 「焼けうせた時計や勲章のつり金具を見て、『この辺が居間だったかな―』とただ一言。そばにいた私は、胸刺さる思いをした」

 冒頭の書簡でも妻の死には触れていない。それより、防空の民間責任者でもあった知事として、職員をはじめおびただしい犠牲者を出した無念さから赤裸々な思いをこう表していた。

 「防空の如(ごと)きは如何(いかん)ともすべからざる次第と存ぜられ候 科学の研究こそ将来戦争の勝負を決する唯一無二の戦法かと存ぜられ候」

 高野知事は、県内だけで2012人の死者が出た9月17日の枕崎台風被害、続く連合国軍の進駐対策も指揮。10月11日警視総監に任命された。客車は復員兵らですし詰めのため機関車に乗って広島を離任した。混乱期の首都の治安対策に努めたが、公職追放令で46年1月に辞任。弁護士に転じた。

 「父は会津(現在の福島県会津若松市)の出身らしく寡黙でしたが、広島でのことは意識して語らず、自分史も残さなかった」と、長男源明(もとあき)さん(87)=神奈川県鎌倉市=はいう。

 高野氏は被爆者健康手帳は取っていなかった。しな子さんは遺骨不明のまま。都立多磨霊園にある墓誌に母を「原爆により広島にて没す」と源明さんは刻んだ。「原爆は許せない気持ちからあえて注記した」とも話した。

(2014年5月12日朝刊掲載)