×

連載 被爆70年

[伝えるヒロシマ 被爆70年] 半生かけ「あの日」継承 長岡初代館長 執念で収集・展示

 国内外から年間100万を超す人々が訪れる広島市の原爆資料館。生みの親ともいえるのが、長岡省吾さん(1973年に71歳で死去)だ。原爆の惨禍を刻む資料を集めて55年、初代館長に就いた。今回見つかった膨大な資料は、執念の資料収集や研究のあまり苦闘の半生だったことも浮かび上がらせる。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 長岡さんは、広島壊滅の日の翌45年8月7日、爆心地に入った。護国神社(現中区の旧市民球場一帯)の石どうろうに腰を下ろし、針で突いたような痛みを感じる。石の表面が溶融してできたとげであった。

 「原子爆弾かもしれない」。そう直感した。満州(現中国東北部)で地質学を学び、広島文理科大(現広島大)の授業嘱託を務めていた。学術研究会議が同年10月に派遣した「原爆災害調査研究特別委員会」の地学班員として、石に刻まれた熱線の影の方向や傾きから爆発地点を測定する。

 瓦や磁器、変形した瓶…。焼け跡で集めたものをリュックに詰めて戻る日々を続け、資料は大竹市の自宅を占拠する。妻ハルヨさん(93年に91歳で死去)が放射能の影響を心配しても収集にのめりこんだ。

 48年からは広島市の嘱託として原爆調査を続けた。「おふくろは自宅で文具店を営み、おやじの活動を支えました」と次男錬二さん(73)=東区=は言う。

 広島復興の弾みとなる平和記念都市建設法が公布された49年、基町の中央公民館一室に「原爆参考資料陳列室」を開設。さらに50年、隣にできた「原爆記念館」で展示を続けた。

 だが予算はなく、職員は館長ただ一人。自費でアルバイトを雇い、錬二さんも馬ふん紙を切り廃虚のパノラマ模型を作った。綱渡りの運営と家族ぐるみの協力のなか53年に「広島原子爆弾による被害状況」を、54年には日英両語の写真集「HIROSHIMA」をそれぞれ自費で刊行した。

 高床式の原爆資料館は55年8月、平和記念公園内に開館し館長に就く。技術吏員として市に正式採用されたのは同年3月であった。

 長岡さんの活動に共鳴した人たちによる「原爆資料集成後援会」が文献の収集に協力。市民に遺品の提供も呼び掛けた。資料館の骨格をつくった。館長を退いたのは62年。「悪魔の刻印」とも呼んだ展示資料約1500点を寄贈した。

 ところが市は「原爆の悲惨をもっとリアルに」と72年、ろう人形で被爆直後の姿を展示する計画を打ち出す。「世界の人は模造ではなく被爆資料そのものを見に来るのだ」と反対した。人形は、長岡さんが食道静脈瘤(りゅう)で死去した半年後の73年8月に公開された。

 開館60年となる資料館の収蔵資料は現在、約2万点に上り、うち420点を展示。長岡さんが1人で担った資料調査には学芸員6人などが当たる。2018年春の全面リニューアルに向け、「実物」重視の展示計画を練っている。資料ごとの関連記録も掘り下げて「原爆の非人道性」をさらに伝えていくという。寄託される長岡資料はその確かな礎となるはずだ。

(2015年4月20日朝刊掲載)