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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 榁田悟子さん―1ヵ月後に息絶えた母

榁田悟子(むろたさとこ)さん(88)=広島市中区

私を背負い逃げてくれた。今こそ語りたい
 被爆当時7歳(さい)だった榁田悟子さん(88)=広島市中区=は、爆心地から約1キロの大手町(現中区)で被爆し、一緒(いっしょ)にいた母と逃(に)げました。母は肩(かた)に大けがを負いながらも榁田さんを背負って歩き、1カ月後に亡(な)くなりました。これまで話す機会がなく家族にもほとんど語ってきませんでしたが、「自分が話さないと誰(だれ)も知ることができない」と80年前の記憶をたどりました。

 榁田さんは、平和記念公園南側にあった中島新町(現中区)の自宅(じたく)に両親と兄、姉の計5人で暮(く)らしていました。建物疎開(たてものそかい)の対象になり、原爆が投下される直前の7月末に大手町へ移りました。

 8月6日朝は、母君子さん=当時(37)=と姉と移転先の家の2階にいました。父は古田町(現西区)の軍需(ぐんじゅ)工場に、兄は呉市の友人宅に出かけていました。さく裂の瞬間は、君子さんから「飛行機の音が聞こえる」と言われて窓(まど)からのぞいていました。閃光(せんこう)や爆発の記憶はありません。気付くと隣(となり)の部屋まで飛ばされ、崩(くず)れた屋根の下敷(したじ)きになっていました。

 先にがれきから抜け出た君子さんに助け出されると、目に入ったのは裸(はだか)で立ち尽(つ)くす血だらけの女性でした。近くの川の中は人であふれ、逃(に)げ惑(まど)う人のうめき声や「ここにいたら駄目(だめ)だ」などの声で周囲は騒然(そうぜん)としていました。

 姉も助け出され、3人で南に向けて逃げました。榁田さんは右足の甲(こう)に何かの破片(はへん)が刺さり、足をひきずっていました。その様子を見て君子さんは肩の肉が見えるほどのけがをしながらも、道中で手にした縄(なわ)でもう片方の肩に榁田さんを縛(しば)り付け、歩きました。江波(えば)町(現中区)のイチジク畑にたどり着いたのは夕方でした。

 数日後に父と兄に再会し、広島県三和町(現三次市)の親戚(しんせき)宅に身を寄せます。君子さんは休むことなく、食事の準備など家族の身の回りの世話をこなします。しばらくは元気でしたが、発熱するなどし町内の病院に入院することになりました。

 榁田さんは姉と共に頻繁(ひんぱん)に病床(びょうしょう)を訪れました。「帰りたくない」とねだり、病院のベッドで一緒に寝(ね)たこともありました。君子さんは回復せず、9月10日に息を引き取りました。

 その後、広島市内に戻(もど)り中島新町にバラックを建て、生活を立て直します。被爆から数年間は体のだるさに悩(なや)まされましたが大きな病気もなく、榁田さんは結婚(けっこん)して2児を産みました。母を思い返し「元々体が丈夫(じょうぶ)な人ではなかった。自分の傷より子どもを守りたい一心だったはず」と想像します。

 米寿(べいじゅ)になり「あの日のことを話せるのは最後かもしれない」と体験を語ってくれました。「母たちの世間話などでにぎやかだった町はもう戻ってこない」。全てを一変させた原爆が二度と使われないよう願っています。(桧山菜摘)

私たち10代の感想

混乱の中にも助け合い

 江波町のイチジク畑で、行方知らずの娘(むすめ)を捜(さが)す女性と知り合い、家から持ち出していた娘の服や食事を分けてもらったそうです。榁田さんの「自分の娘が心配な中、他人の娘に気をかけてくれるなんて」という言葉に共感しました。被爆直後の混乱(こんらん)の中にも他人を思いやり、助け合う人がいたことを心にとめたいです。(高3森美涼)

つらい記憶は消えない

 君子さんの話をするときだけ、榁田さんの表情が少し暗くなったのが印象的でした。その姿(すがた)を見て私は胸(むね)が痛(いた)くなり、戦争をなくしたいと強く思いました。幼(おさな)い頃の経験にもかかわらず、榁田さんは家族や町の姿を鮮明(せんめい)に記憶していました。あの日の記憶やつらかった思いは年月がたってもずっと消えないのだと思います。(高1西谷真衣)

 江波町のイチジク畑で、行方知らずの娘を捜女性と知り合い、家から持ち出していた娘の服や食事を分けてもらったそうです。榁田さんの「自分の娘が心配な中、他人の娘に気をかけてくれるなんて」という言葉に共感しました。被爆直後の混乱の中にも他人を思いやり、助け合う人がいたことを心にとめたいです。(高3森美涼)

 君子さんの話をするときだけ、榁田さんの表情が少し暗くなったのが印象的でした。その姿を見て私は胸が痛いたくなり、戦争をなくしたいと強く思いました幼頃の経験にもかかわらず、榁田さんは家族や町の姿を鮮明に記憶していました。あの日の記憶やつらかった思いは年月がたってもずっと消えないのだと思います。(高1西谷真衣)

 被爆直後の混乱や悲惨な光景、そして翌月にお母さんを亡くした」悲しみを聞き、胸が締め付けられる思いがしました。榁田さんは家族にもあまり体験を語ってこなかったそうです。今回私たちに話すことにどれだけの勇気が必要だったか想像し、一つ一つの言葉を胸に刻みました。戦争の悲惨さを忘れず、平和な未来を築くために自分ができることを考え続けたいです。(中1河原理央菜)

(2025年11月11日朝刊掲載)

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