原爆の子の像

折り鶴を持つ少女がドーム形の台座に立つ原爆の子の像

原爆の子の像除幕式(1958年)
像のモデルは佐々木禎子さん。被爆10年後の1955年、12歳で亡くなった。足が速く運動が大好きな少女は、幟町小(中区)卒業を前に白血病と診断され、広島赤十字病院に入院した。病院へ贈られてきた折り鶴に魅せられ、夢中で折るようになった。体が衰弱してきても、折るのをやめなかった。死後、ザラ紙に書き留められた「血球表メモ」が病室で見つかった。
禎子さんと6年竹組で一緒で、幟町中へ進んだ親友たちは、彼女の死の1カ月後、広島であった全国中学校長大会の会場で「原爆の子の像を作りましょう」と呼び掛けるビラを配った。そこから「広島平和をきずく児童生徒の会」の結成へとつながり、原爆で死んだ子どもたちの霊を慰め、平和を願う像建立のための募金活動が全国に広がる。募金は3000を超す学校から寄せられ、像は1958年5月5日に除幕された。
像の碑文には次の言葉が刻まれている。
「これは ぼくらの叫びです/これは 私たちの祈りです/世界に平和を きずくための」
カナダ出身の作家エレノア・コアが1977年に著した「サダコと千羽鶴」は十数の言語に翻訳され、禎子さんの名前と像は広く知られるようになった。これまでに届いた折り鶴は、市が記録を取り始めた2002年からでも1億1020万羽に上っている。
(2011年7月4日朝刊掲載)