原爆ドーム

1945年8月6日午前8時15分、米軍が投下した原爆は、楕円(だえん)形ドームの南東約160メートル、地上600メートルでさく裂した。「リトルボーイ」と呼んだウラン型核爆弾からのすさまじい爆風と熱線、放射線により、死者は45年末までに13万~15万人に上った(広島市が76年に国連へ報告した推計値)。爆心地から半径約2キロは廃虚と化し、木造・非木造の建物約7万6千件の92%が焼失、破壊された。

ドームの前身、広島県産業奨励館は、爆風のほぼ真下となったために、鉄骨の屋根とれんが造りの壁面はかろうじて残った。チェコ出身のヤン・レツルが設計し、15年に建てられた。一部5階の洋風建築は、城下町の面影をとどめる広島の名所となった。らせん階段や庭園には噴水があり、そばには元安川が流れる。近所の子どもたちには格好の遊び場でもあった。

笠井恒男さん(77)は、奨励館があった猿楽町(現中区大手町)で生まれ育った。「頭蓋骨で見つかった母や、行方知れずの父とダブり、ドームを見るのは今も好きじゃない」という。

広島市は「悲痛な事実を後世に伝え人類の戒めとする」と、67年に全国からの募金で保存工事を初めて実施。政府は95年に国の史跡に指定し、翌96年にはユネスコの世界遺産に登録された。「広島平和記念碑(原爆ドーム)」が登録名である。

(2011年5月2日朝刊掲載)