市立高女慰霊碑

広島市立第一高等女学校(現舟入高)のことを市民は「市女(いちじょ)」「市立高女(いちりつこうじょ)」と呼んだ。その1、2年生541人はあの日、先生7人と共に旧木挽(こびき)町(現中島町)で建物疎開作業中に被爆し、全員が亡くなった。他の場所にいた上級生、教職員を含めると676人が被爆死。市内の学校で最も多い原爆犠牲者を出した。

平和記念公園(中区)の南、元安川に架かる平和大橋西詰めに慰霊碑がある。女生徒たちが建物疎開の作業をしていた辺りだ。
高さ約1.7メートル、幅約1.3メートルの石碑には「原爆」とか「慰霊」の文字は刻まれていない。表側に3人の女生徒が浮き彫りされている。中央の少女はもんぺ姿で「E=MC」を記した手箱を抱いている。両側の2人はスカートをはいてハトと花輪を持ち、昇天する少女を慰めている。

被爆から3年後の1948年、まず母校校庭に建立された。当時は連合国軍の占領下で、原爆被害のことを表立って語りにくい時代だった。このため関係者は碑を「慰霊碑」と言わず、「平和塔」と呼んで除幕した。

制作したのは山口県出身の彫刻家河内山賢祐(こうちやま・けんすけ)氏(1900~80年)。当時の宮川造六校長が書き残した資料によると、著名な物理学者を訪ねて教えを請いデザインを練った。そこで行き着いたのが、原爆製造にも応用されたアインシュタインの有名な相対性理論「E=MC」。この公式で「原爆」を象徴的に表現したとされる。

碑は57年、母校校庭から現在地に移された。8月6日には毎年、舟入高の在校生も出席して慰霊式典が営まれる。

(2011年9月19日朝刊掲載)