2000/6/28

≪下≫ あの記憶 忘れてはならぬ

 広島市中区の平和記念公園にある原爆慰霊碑は「安らかに眠って 下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻む。廃虚からの復興途次 にあった一九五二年に建立され、原爆死没者名簿の奉納が毎年の平 和記念式典で歴代の市長により続く。これまでの登載者は二十一万 二千百十六人。今年も二十一日から、記帳作業が市役所で始まっ た。昨年の式典以降に亡くなった被爆者や、新たに死没が分かった 人の氏名が、今世紀最後となる「八月六日」に加わる。

 瀬戸内に浮かぶ黒髪島産の御影石で造られた石室に納まる「名 簿」は、史上初めて原爆が使われた一九四五年八月六日に始まるヒ ロシマのおびただしい死者たちの記録である。しかし、遺族でさえ 触れることも見ることもできない。

原爆慰霊碑が建立された年、市民は石室に納められた5万 7902人の原爆死没者名簿の前で、父や母、夫、妻、きょうだ い、旧友らのめい福を祈った(1952年8月6日、広島市中区の 平和記念公園)

 ■「展示しては」

 「死没者を『開かれざるタイムカプセル』に封印してしまっては 名簿が持つ意味、メッセージは伝わらない」。原爆資料館の資料調 査研究会メンバーである比治山大の島津邦弘教授は、資料館展示の あり方についても昨年、提言した。

 「広島、長崎以降の核状況を見ると、『起き上がって語り続けて ください』と言うべきだろう。死没者の遺影を可能な限り収集し、 展示することは、原爆の人間的悲惨さを直接訴える、深い感銘を与 えるものになるのではないか」

 中国新聞社はこの三年間、原爆ドームだけを残して消えた街「猿 楽町」をはじめ、平和記念公園となった町で暮らし、働き、動員作 業に就いていた一人ひとりの「八月六日」を遺族の協力を求め、追 いかけてきた。二十一世紀を前に、今も未解明のままになっている 被爆死の実態に一歩でも迫りたいと考えたからだ。

 ■55年ぶり追悼

 一連の報道がきっかけとなり、猿楽町の旧住民は一九四〇年前後 の街並み戸別地図をまとめ昨年、原爆ドーム横に「被災説明板」が 設けられた。県立広島二中(現・広島観音高)は今年四月、新たに 分かった死没生徒二人の名前を碑に刻んだ。公園内の西側にあった 「元柳町」の旧住民はこの夏、五十五年ぶりに合同追悼式を営む。 「死没者の、残された者たちの、思いを来世紀に引き継ぐため」と いう。

 三年間に接した遺族は三千人を超す。学童疎開先で独りになった のを知り、沈黙を貫いていた人は少なくなかった。伴りょを失って 再婚し、今の家族には胸のうちを秘めていた人もいた。いえぬ傷を 押し開けるような求めを最後まで拒んだ遺族もいた。残された者た ちは「人間的悲惨さ」に耐え、生き抜いていた。

 ■確認は一部分

 そうした人たちの協力で、原爆死没者名簿の基になる四六年の市 の「被害状況調査」に名前の載っていない死没者が相当数いること が分かった。だが、旧住民や動員学徒の銘碑に刻まれているのに、 その詳細がつかめなかった人も多数に上った。われわれが確認した のは、「あの日」消し去られた人たちのほんの一部でしかない。

 「原爆を、人間の体験としてどう伝えていくか。人間は『しては ならない』問題としてとらえ直せば、許されていいのかということ です」。被爆史を専門にする広島大原爆放射能医学研究所の宇吹曉 助教授は、原爆を一人ひとりの人間の上に起きた問題として見るこ とを説く。

 原爆は、歳月とともに遠ざかっていくのではない。今を生きる者 たちが忘れたとき、消え去っていくのだ。「遺影」はそのことを語 り掛けている。