猿楽町CG完成    ヒロシマ以前、黒瓦のまち 日々の暮らし
2002.8.2
 ちゃぶ台があった場所を囲むように、輪になった家族の遺骨が見つかっている。原爆の強烈な閃光(せんこう)と熱線は、頭上から容赦なく降り注ぎ、生きていたまちを壊滅させた。広島市猿楽町は、そんな爆心直下のまち。
 その五年ほど前。米、味噌(みそ)、傘、旅館、仕出し、建具、運動具、食料品、骨とう品の店と、通りは喧噪(けんそう)に満ちていた。戦時色はまだ、さほど強くない。黒瓦に格子戸の家並みを、今は原爆ドームとして残る産業奨励館の丸屋根が優しく見守る。
 完成したコンピューターグラフィックス(CG)は、一九四〇年ごろの通りを復元した。



家族が夢がありました

通りには いつも人情
益本建具店。作業場は通りからも見えた
「矢倉会」会長
 益本嘉六さん(83)=広島市中区大手町

 元住民たちでつくる「矢倉会」の会長益本嘉六さん(83) は「大家族のようだった」と振り返る。いたずらした子は遠慮なくしかられた。でも、優しい大人たちはよその子に、おやつも、ご飯も食べさせた。濃密な近所付き合いが、あふれていた。

 益本さんの家は建具店だった。余った木くずは近所に燃料としておすそ分けしていた。原爆投下の翌年、中国から引き揚げ、生家跡にすぐテントを張って暮らした。「七十五年間、草木は生えない」と言われたが、雑草はたくましく生えていた。

建物一つ一つに愛着
田辺家の庭。隣の産業奨励館が間近に迫る
映像制作統括
田辺雅章さん(64)
=広島市中区十日市町

 田辺雅章さん(64)。産業奨励館すぐ東に家があった。母と一歳の弟は自宅で爆死した。陸軍中尉だった父も出勤途中で被爆し、八月十五日に亡くなった。祖母と二人残された。 

映像制作会社を経営する田辺さんは、全国を歩いて和風建築の構造を調べた。米国に渡って資料を探した。広島市立大、広島工業大などの協力を得て、猿楽町の西側半分を中心に四十五軒を三次元CGに再現した。益本さんたち住民が記憶をたどり、証言した。うち十軒は家屋の内側に足を踏み入れることもできる。

 柱や天井の形状や質感、ポスターやブリキ缶など小物の絵柄にもこだわり、失われたものを再現した。幸せな暮らしの息遣いこそが、原爆を告発できるから。

 苛烈(かれつ)な体験だけに、元住民たちが口を開くには相当の時間がかかった。一方、CG技術は年々進歩してきた。ちょうど重なった現代に、猿楽町はよみがえった。

 「あの日の出来事を忘れたとき、再びあの日が繰り返される」。CGは今秋までに、デジタルハイビジョン作品に編集される。

独特のにおい 記憶に
笠井伊兵衛商店。和風の建物に色とりどりの傘が似合う
笠井伊兵衛商店
 笠井恒男さん(68)=広島市佐伯区五日市中央

 いたずらが大好きだった。通りの宮田製本店に忍び込んで紙をばらまいたりしたなあ。その都度、「おっさん」に追いかけられ、怒鳴られた。でも本気では怒らんのよ。

 傘の卸問屋だった。四人兄弟の末っ子。赤やピンクの絹で出来た蛇の目傘、金太郎の絵など子ども用の馬傘が並んでいた。親が「手伝え」と言えば、飛んで逃げた。

 岩崎醤油(しょうゆ)店の「ぼっちゃん」があこがれの的だった。二階の部屋でクラシックのレコードをよく聴かせてくれた。

 戦況が深まると、五日市(佐伯区)に疎開した。一日も早く猿楽町に戻りたかった。原爆が落ちる二日前、母に頼んで自宅に戻った。

 電車を降りた途端、味噌や鬢(びん)付け油、竹の香りがごっちゃになった「猿楽町のにおい」がぷーんと鼻をついた。「帰ってきたのう」と思ったことを、今も覚えている。

 六日朝、ずる休みしようと駄々をこねていたら、母親にしりをたたかれ、追い出された。七時四十五分ごろだった。五日市の国民学校へ向かう途中、西広島駅で被爆した。

 一人家に残った母は、黒焦げになった。いつものヘアピンが三つ、頭にこびり付いていた。建物疎開に出かけた父の行方は知れない。

 醤油屋の「ぼっちゃん」も、製本店の「おっさん」も、みんな一瞬に消えた。原爆は、育ての親と実の親を一気に奪ったということです。

買い物客 活気に満ち
益本建具店。作業場は通りからも見えた
田中食料店
田中俊明さん(84)=広島市東区牛田本町

 ニンジン、キャベツ、果物や茶わん…。祖父が一九〇七年に始めた店は、周辺の病院の入院患者や郵便局職員がしょっちゅう出入りしていた。夕方は晩ご飯の材料を買う主婦でにぎわい、当時としては珍しいアイスクリームも売っていた。

 四一年ごろから配給制が始まり、店を閉めて野菜や酒の配給を請け負った。

 両親と妻、長女の五人暮らしだった。自分は召集され、宇品(南区)にいた。

 被爆直後から翌朝まで、大勢の負傷者の救助作業を続けた後、歩いて自宅に戻った。お城も何もかも無くなっている。だめじゃ、と覚悟した。

 自宅土間に、白骨化した妻と一歳の長女が横たわっていた。真っ白な骨だった。一つひとつ拾い、風呂敷に包んだ。「アメリカのやつ、やりやがったのう」。怒りばかりが込み上げてきた。

 父は、江波(中区)の陸軍病院で死没者名簿に掲載されていた。石油缶に入っただれとも分からない骨を父と思って持ち帰った。榎町(中区)へ行く途中に被爆した母は、八日後に死亡した。

 一人だけ生き残った。

 ニュースをしゃべりながら来る「おでんのあつあつ」屋さん、夜は夜鳴きそば…。リヤカーを引いた屋台がひっきりなしに通り、いつもにぎやかな町だった。普通の人が暮らす町に、なぜ原爆を落としたのか。

隣り近所 食料分け合う
岡本味噌店。味噌だるがずらり。柱に電話
岡本味噌店
 永木(旧姓岡本)博子さん(71)=広島市佐伯区五日市町

 両親と姉の四人暮らしは、当時としては珍しい核家族だった。近所の人たちが集まって来て飲むことも多かった。

 猿楽町四十番地。店は味噌の製造卸だった。大豆や塩を混ぜたり、配達したりと、よく手伝いをしていた。

食糧事情が悪くなると、父は竹の葉に味噌を包み、学校帰りの友だちに分けていた。私もよく近所に助けられたが、父もよくしていたんです。

 八百屋、魚屋など何でもそろう、下町風情の町だった。近所同士仲も良く、みんな親類のようだった。

 父と母は、防空警戒や建物疎開をしていた市内で、姉は自宅で、自分は江波(中区)の学徒動員先で被爆した。家族四人ばらばらだった。

 七日の昼すぎ、猿楽町の避難先に決まっていた緑井(安佐南区)の国民学校に着くと、先に連れられて来ていた姉が息絶えた直後だった。

 十三日、似島(南区)に収容されていた母と、可部(安佐北区)で会うことができた。私の名前を「ひろちゃん」と呼ぶまで、母とは分からなかった。二十二日、亡くなった。父の遺体は見つからない。

 家の斜め向かいに、行李(こうり)の店があった。その行李に母は自分たちの着物を入れ、郊外の知り合いの農家に預けてくれていた。

 どうしても捨てられなくて、行李は今も父や母たちの着物や帯を入れ、押し入れにしまっている。

奨励館の庭 友と野球
マルヤス運道具店。モダンな陳列棚が並び、壁にはポスター
マルヤス運道具店
 香川昇さん(76)=広島県千代田町

 町の周りに城壁があったわけではない。しかし、ほとんど町外へ出たことはなかった。学校から帰って産業奨励館の庭で友だちと野球をやり、一銭洋食を食べれば十分幸せだった。

 店は昭和初期、父が始めた。当時市内にスポーツ用品店は三軒しかなく、客足が絶えなかった。冬になれば店内はスキー板が「林立」していたし、テニスラケットや野球のグローブ、バットなど、何でもそろっていた。

 一九四二年ごろから、戦争は肌身に感じたよ。毎日遊んでいた野球も、英語は禁止された。ストライクは「真ん中」だし、セーフは「生きる」。とにかく、おかしげな時代じゃった。

 兵隊に行って、静岡や兵庫を回った。広島に戻ったのは八月十八日。広島駅に着いた途端、宇品(南区)や江田島が丸見えなのにびっくりした。三階建てだった店も、建物は吹き飛び、地下室が丸見えだった。

 「広島もやられたんだな」。不思議と冷静だった。家の窓から見えていた己斐(西区)の山だけが、昨日と変わらない風景だった。

 両親や祖父母たちが築き上げた町で、毎日淡々と、幸せな暮らしができた。終戦後間もなく八千代町に移り、たばこや食料品を売った。五人の子どもを育てた。それでもなお、私の古里と言えば、猿楽町だ。

元安川でシジミ採り
木松米穀店。産業奨励館前の元安川船着き場は、米など物資の集散基地でもあった
木松米穀店
 木村裕彦さん(71)=広島市南区旭

 友だちと元安川で遊んだ。シジミを採り、夜も泳いだ。

 産業奨励館内でも走り回った。らせん状の階段の手すりを滑り下り、守衛さんに怒られたこともあったなあ。

 三階建ての家には、珍しがって友だちがよく遊びに来ていた。配給制が始まり、原爆の一カ月前に店をたたんだ。

 山陽中三年の十四歳のときだった。疎開していた古市(安佐南区)から、学徒動員先の五日市(佐伯区)の中国塗料の工場へ行くため、爆心地から約一・七キロの三篠本町(西区)を歩いていた。

 「あらっ」と思った瞬間に気を失い、熱さで気が付いたのは三十分ほど後。がれきの下敷きになっていた。左ほおにやけどを負い、右耳は鼓膜が破れた。

 すぐに古市に戻り休んだ。父とともに、姉を捜しに行った。当時二十四歳だった。どこにいるか分からず、いたるところの救護所を尋ねて回った。やけどの顔を見ても誰やら分からない。私らが姉の名をなんぼ呼んでも、手をあげるもんは、最後までおらんかった。

 自宅へも行った。跡形もなかった。産業奨励館の分厚いがれきが、散らばっていただけだった。

 八歳の孫と今の原爆ドーム周辺を歩いた。「おじいちゃんの家は昔ここにあったんで」と言っても、ピンとこないのか「ここに人が住んでいたの」というふうだった。


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