体も未来も焼かれて


 原爆写真は見る者を震撼(しんかん)させる。被爆直後の市民らが収容された臨時救護所で撮られた「広島市戦災記録写真集」が残っていた。明日で被爆六十年となる今回の「ヒロシマの記録」で掲載する写真の一部は、強烈すぎるかもしれない。しかし、人間の身に起こったまぎれもない事実である。同時に写っている人たちの尊厳、犠牲者家族の今も癒えぬ思いから残酷なものは控えた。そうであっても、原爆が持つ残虐さ、非人道性はあまりに生々しい。「一九四五年八月六日」に何が起きたのか、続いているのか、未来に向けて何をなすべきなのか。原爆写真は私たち一人一人に厳粛に問い掛けている。(編集委員・西本雅実


 陸軍船舶司令部写真班が撮影した写真五十二枚を残していた御園生圭輔さん(一九九五年、八十二歳で死去)は日本の放射線医学の先駆者の一人。陸軍軍医学校教官だった。

 陸軍省の第二次調査班として十四日に広島に入り、遺体の歯などから被爆状況を確認した。翌日の敗戦後もとどまり十一月二十一日まで調査を続けている。後に学術研究会議の「原子爆弾災害調査報告集」(五三年刊)に収められている資料は、進駐してきた米軍から提出を求められた。

 「英訳は私も手伝いました。写真は見たことがないので自宅には持ち帰らなかったと思います」。東京都豊島区在住の妻倫子さん(85)は記憶をたどり、一枚ごと写真のそばに記載された収容者の症状や救護所名の走り書きは夫の字ではないと断言した。

 「極秘」「船舶軍医部」の印が押してある「広島市戦災記録写真集」は七三年、市長が会長だった広島原爆障害対策協議会に御園生さんが寄贈していた。翌年に国の原爆被爆者医療審議会長に就く御園生さんは「八月二十日」までに入市した被爆者の一人。だが被爆者健康手帳を最期まで取得しなかった。「戦争で行ったのにもらえるか」と拒んだという。おびただしい犠牲者を思いためらいがあったのか。


原爆の威力
 ウラン235を爆発させた原爆は、爆心地で風圧は1平方メートル当たり約30トンという強烈な爆風を発生し、地表で3000度を超す熱線、大量の中性子線やガンマ線などを降り注いだ。

 即死を免れても、被爆直後から嘔吐(おうと)、発熱、下痢の症状をもたらし、2週間前後からは脱毛が始まった。放射線障害により初期は白血病が、60年となる今日も、胃がんや甲状腺がん、乳がんなどが高い発生率で続く。

 「広島・長崎の原爆災害」(両市が79年編さん)は、広島市で直接に被爆したのは35万人前後、入市被爆が約7万7600人、救護活動などの被爆は約1万1300人と推計。半径1キロ内にいた人は90%、2キロ以内は80%が被爆した45年末までに亡くなったとされる。
 五十二枚の写真からは、人間の頭上でさく裂した原爆のすさまじさが立ち上がってくる。直後から臨時救護所となった南区の第一国民学校(現在の段原中)、大河国民学校(大河小)、野戦病院が設営された船舶練習部(現在はマツダ宇品西工場)…。目を覆いたくなる光景が続く。

 これらの写真の半数は、日本が占領下から主権を回復すると東京の朝日出版社から早速に出た「原爆第1號ヒロシマの写真記録」(五二年八月十四日発行)に使われている。ただし、場所や撮影者の記述はない。うち一枚が、世界的に知られた写真雑誌「ライフ」五二年九月二十九日号に「原爆の恐ろしさを米国初公開」として別の写真と一緒に掲載されていた。

 その翌年に広島市の男性が「私が百数コマ撮り、出版社やライフに提供した」と名乗り出ていた記事があった。捜すと八年前に死去していた。妻は夫が生前にネガごと第三者に譲ったという。その人物も亡く、被爆直後を撮った写真がさらにあるのかどうか詳細をつかむことはできなかった。

 「八月六日」から敗戦の十五日までに撮られた原爆写真は、今回の写真五十二枚を除いて、広島で被爆した九人と大阪から入った朝日、毎日、同盟(現在の共同通信)の記者三人の十二人による二百五十九枚の存在が明らかとなっている。学術研究会議に同行して九月下旬に入った東京のカメラマンなどを含め四五年末までに、日本側は計三十七人の二千七百二枚を収めたとみられる―。

 原爆資料館調査研究会メンバーで、写真家の井手三千男さん(64)が丹念に積み上げた「確認できる限りの数字」である。井手さんは「二度と撮ることがあってはならないのが原爆写真。写っている情報を確かめて保存、活用すべきだ」と、現存する原爆写真の検証を粘り強く続ける。

 原爆写真は、根こそぎ破壊され全容がいまだ未解明の被爆実態に迫り、未来へ伝えていくべき記録である。未曾有の記録から「人類共有の記憶」を読み取る。行動に生かす。ヒロシマからの核時代を生きる私たちの責務だ。

「船舶練習部ニ於(お)ケル兵傷者収容状況」 
爆心地から南東4・1キロの陸軍船舶練習部は臨時野戦病院、次いで広島第一陸軍病院宇品分院となり6000人以上が収容された。練習部の敷地は現在はマツダ宇品西工場となり、建物は倉庫として現存する
「第一国民学校ニ於ケル火傷患者」
爆心地から南東2・6キロ、現在の段原中は木造校舎は倒壊したが、鉄筋東校舎や講堂は残り、救護所となった。女性とみられる人物に捜し当てた家族が油を塗っている。校庭では遺体の火葬が続いた
「第一国民学校ニ於ケル一小児ノ火傷状況」
米の写真雑誌「ライフ52年9月29日号」は「助かる見込みのない子ども」の説明文で掲載。左上に見える足は女性とみられる。母だろうか(白い部分は台紙に張って写真に付着した紙)



「大河臨時野戦病院ニ於テ収容セル広島女専生徒火傷患者収容状況」  
大河国民学校(南区旭の大河小)は2階に船舶司令部の部隊が常駐していたため物資が集積され、学校も傷口に塗る油を提供した。広島女専は現在の県立広島女子大
「似島船舶防疫部ニ於テ胸部及上肢(し)火傷」 
宇品沖合の広島湾に浮かぶ似島には検疫所があった。被爆直後から次々と収容者が続き、当日だけで2000人に上った。台紙には「尾糠」の文字が残り、船舶司令部写真班員だった尾糠政美さん(83)の撮影とみられる
「広島市本川国民学校救護所ニ於テ収容シアル老人ノ重症」 
爆心地から西へ410メートルの鉄筋3階建て校舎は外郭だけ残り、児童約400人が犠牲に。翌7日から1階に救護所が設営された



爆心地680メートルの中国配電本店(中区小町)5階屋上から望む四方の廃虚=岸本吉太さん撮影


 岸本吉太さん(1989年、87歳で死去)は40年から広島市内で写真館を開業し、原爆で済美国民学校(廃校)に通う8歳の長女を失った。「カメラを手にする気になれなかった」が、中国配電(中国電力)の求めで45年11月から市内各地の電気施設被害を撮影して歩いた。中区東白島町の写真館を継いだ長男の坦さん(70)が、ガラス乾板のネガを保存している。



建物被害
 原爆による全焼地域は、爆心地から半径2キロ前後に及んだ。米軍が投下5日後の11日に空撮した写真から確認できる。翌46年8月10日の広島市調査によると、1キロ以内の建物1万9667件のほぼ100%が全壊全焼、1キロから2キロの2万5526件の99%が全壊全焼または大破した。市内全域の7万6327件でみれば半壊・半焼・大破を含め92%が被害に遭った。


北東方面
左端の建物は広島中央電話局(中区袋町)、奥が福屋百貨店(八丁堀)。中央は県立第一高等女学校跡で、その手前一帯は現在の平和大通りになる
北西方面
中央奥に原爆ドームが見える大手町一帯。右隅が現在の宇品線中電前。電気・水道は復旧したが、バラック民家は全く見えず無人の荒野が広がる
南方面
中央が市役所、奥に見える塔は爆心地から1・5キロの広島赤十字病院。手前は市立浅野図書館屋上で右が宇品線が走る鯉城通り。爆心地1キロになるとバラックがぽつぽつ立つ
南西方面
手前が常念寺(中区大手町)墓地。中央は金毘羅神社の標柱で今も立つ。その奥の鉄骨のがれきは中国配電製作所大手町工場、左上が本川に架かる万代橋


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