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土の滑走路

 夢の中でも
 島はいつもいつも
 私の中
 ふるさとの島テニアン
 その記憶を
 確かめるのが苦しくて 五十余年
 もう一度見たいという 母 みんなで島へ行こうと言う
 私は黙って
 島を抱きしめる
(詩集「テニアン島」より「抱きしめる島」)


 詩を学び始めたのは還暦を迎えるころ。すると封じ込めていた記憶があふれ出てきた。言葉にするのに五十年かかった「古里の島」。大阪府茨木市の主婦工藤恵美子さん(71)はテニアン町スズラン通りで生まれた。

工藤さんと母の西野豊子さん。「私の気持ちを、そっくり詩にしてくれました」。娘の詩集「テニアン島」を、母は何度も読み返す
 ▽心の中に古里

 材木店「冨士商会」を営む両親と妹、弟の五人家族。お隣は「柴田商店」だった。友だちと泳いだ海、二銭のアイスキャンデー、島をめぐるサトウキビ列車…。島の風景は今も、いつも、工藤さんの心の中にある。

 「内地には雪が降るんだよ」。少女のころ、父の話に胸が高鳴った。まだ見ぬ祖国へのあこがれ。父にせがんで繰り返し聞いた。炎暑の島で、白い雪を思い浮かべた。

 「幸せでした、本当に。戦争さえなければ」―。のどかな暮らしは、戦況の悪化によって奪われた。マリアナ諸島は日本本土を守るための「海の生命線」に。国民学校初等科三年になると、工藤さんも旧海軍の飛行場づくりにかり出された。

 小さな手で草を抜く。土の滑走路にしつこく根を張る、熱帯の草。朝に抜いても夕方には生えてくる。暑さに負け、倒れたこともある。必死だった。「この飛行場ができれば日本は勝つんだ」。そう信じていたから。

テニアン島北部にある「ノースフィールド飛行場」。ここから、原爆を搭載したエノラ・ゲイが飛び立った(広陵高校提供)
 ▽残った父は自決

 一九四四年二月、テニアン島は最初の空襲を受ける。三月には女性や子どもの引き揚げ命令が出た。当時三十歳だった工藤さんの母は三人の子どもを連れ、引き揚げ船に乗った。警防団長だった父は島に残った。島を守るために。

 島の沖合で沈められる
 引揚船を見て
 乗るのは絶対にイヤ
 死ぬなら島で一緒にと言いはった母
 沈んでもいいから
 乗ってくれと父
 万が一つにも子どもが 生き残るかもしれないと
 八十六になる母が
 いま話す
 三人の幼い児を前にして父と母が交わした 最後の会話を
(「生死の海」)


 六月、島には二度目の空襲が。七月には米軍が上陸。激しい地上戦の果て、八月三日に玉砕―。砲弾で負傷した父は手りゅう弾で自決した。生き残った人から聞いた、父の最期だった。

 日本人が、日本を守るために建設した飛行場―。島の北端にあった「東洋一」の滑走路はたちまち米軍の手に渡り、拡張されて日本攻撃の前線基地となる。そして原爆搭載機が飛び立った。広島に、原爆が落ちた。

 島を死守したのは
 日本を 故郷を
 守るためだったのではないか(略)
 この島のこの滑走路から原爆を積んだエノラ・ゲイが飛び立ったという事実
 戦場の島が
 背負ったもの
(「エノラ・ゲイ」)

テニアン町内の写真館で撮った、工藤さん方の最後の家族写真。左から工藤さん、父、妹、母、弟。後列は同居していたいとこ
 ▽「歴史を知って」


 「ただ悔しい。悔しいんです」。工藤さんは繰り返した。「戦場になった古里の島―。民間人も激しい殺し合いに巻き込まれた。そして原爆搭載機が、この島から飛び立った。テニアンの悲しい歴史を知ってほしい。多くの人に、広島の人に」

 十歳の心に焼き付けた島の記憶。つくり続ける、テニアンの詩を。九十二歳の母に読んで聞かせる。戦争のない未来を祈りながら。(木ノ元陽子)

 テニアンの飛行場  旧日本軍は1939年、対米開戦に備え、島の北部に大規模な飛行場建設を計画。作業要員として日本から約1000人の受刑者が送られた。島内にはほかに3飛行場が造られ、戦争末期には島の民間人や子どもたちも作業に動員された。米軍はテニアンを占領後、北部の飛行場を接収し拡張。できあがった「ノースフィールド飛行場」は日本本土爆撃用のB29の基地となる。「年表 太平洋戦争全史」によると、接収から1週間後にはテニアンからB29が飛んでいる。45年8月、ここから広島と長崎に原爆搭載機が飛び立った。

悲しみの島 テニアン 玉砕と原爆と

2006ヒロシマ


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