【きのこ雲の下でおきたこと】





午前8時15分

 1945年8月6日、月曜日の広島の朝は快晴でした。深夜零時過ぎに空襲警報が出 たが、何ごともなく、午前2時10分に解除。しかし、午前7時9分にまた警戒警報 が出ました。これも7時31分に解除されました。ほっとした人々は戦時下の朝食を 済ませ、それぞれの1日を始めていました。その時、午前8時15分、上空にセン光 が走ったのです。

 7時過ぎの警戒警報の時、実は原爆投下のために気象観測をするB29が1機、広 島に飛来していたのです。しかし、人々はそれを知らないまま、真夏の街で行動を 始めていました。

 学校の生徒は主に中学1・2年生の男女合わせて約8,400人が建物疎開を手 伝うことになっていました。近郊の町や村の義勇隊約1万人も広島に入り、現場に 到着しつつありました。軍需工場に動員された生徒も、学校で勉強しようとしてい た生徒もいます。

 後に被爆教師として平和教育を進める石田明さんは市中心部の市内電車の中。こ の日から日赤病院で被爆者の救護と医療の人生を歩み始める重藤文夫さんは広島駅 に着いて間もなく。後半生を被爆者運動に身を投じる森滝市郎さんは高等師範学校 の学生たちと動員された市南部の三菱重工業広島造船所にいました。石田さん以外 の2人はすでに亡くなっていますが、3人は特別の被爆者ではありません。  戦時中ではありましたが,勤労、家、配給、通院、見舞い、預金の引き出しなど、 いろんな市民生活が動き出した時刻だったのです。


直後の街

 多くの被爆者の証言を聞くと、人々は爆発の直後、それぞれ爆心地から遠い方向 に逃げたようです。広島駅付近の人は東や北へ、横川駅付近の人は北へ、比治山周 辺の人は南や東に。もちろん家族や職場の事情などで、違う方向に向かった人もい ます。

 同じころ逆に、救護のために周辺の町から広島に向かった人々もありました。広 島港付近にいた陸軍船舶司令部は、所属する通称「暁(あかつき)部隊」の兵士た ちを市中心部に救助に向かわせました。

 だれとも知れぬむごたらしい遺体、水を求めて川に飛び込む女学生、焼かれた皮 膚を引きずりながら幽霊のように行く人、倒れた壁の下でうめく母を助け出そうと する息子、迫りくる炎、「もう苦しむだけだ」とひん死の娘を板切れでたたく父…。 すべてが地獄でした。

 炎と叫び声に包まれ、避難と救助の交錯する街に、もう1つの原爆の魔の手「残 留放射線」が立ち込めていました。


上空 580メートルの火球

 B29爆撃機エノラ・ゲイが 9,600メートル前後の高度から投下した原子爆弾は、 高度約 580メートルで爆発。爆発と同時に、空中の爆発点の温度は数百万度に熱せ られ周りの空気が白熱に輝く火球が現れました。

 1万分の1秒後、火球は直径28メートルに広がり、温度は30万度近く。1秒後に 火球は最大直径約 280メートルにまで急膨張したと言います。爆発の瞬間に強烈な 熱線と放射能が発生。周囲の空気がすさまじい力で膨張し爆風になりました。

火球の放った瞬間の光を、被爆者は「マグネシウムをたいたようなセン光」と言い ました。続いて起きた衝撃音と合わせ、ふつうの爆弾と違うことを多くの人が直感 していました。


巨大なきのこ雲

 爆発の直後、異常な空気の乱れで生じた原子雲が、上昇気流に吹き上げられました。
 軍観測機の報告では、投下5分後、直径約5kmに達する灰色の巨大な雲が市中心部に垂れ下がりました。雲の中心から白い煙の柱が立ち上って、やがて17,000メートルに達し頂上はかなりの大きさに広がりました、投下4時間後に広島上空に来た写真偵察機は「市全体がまだ煙の雲に覆われていて、その周にやっと火災を認めることが出来た」と言います。


すさまじい熱線、爆風

 すさまじい爆風の圧力、爆風、熱線の威力が複合して起 きました。結果は悲惨でした。

 爆心の真下を中心に、半径約2kmの範囲では木造の家はほぼ全壊・全焼、崩れな かった丈夫な建物も窓は吹き飛ばされ、内部は焼失しました。炊事の残り火などに よる火災もありましたが、半径1.8kmの範囲では、木造の家はの直射で燃え出し たと考えられています。

 2−4kmの範囲では、距離に応じて全壊または半壊しました。しかし、かなり離 れた場所でも熱線による着火の例があります。

 火事は投下1時間後から広がり、その日午後2時ごろまで最も火勢が強く、夕方 までに広い範囲をなめつくしました。火は場所によって、その後の2、3日も燃え 続けたと言います。


北西へ広がった「黒い雨」

 快晴の夏の日に、原爆投下20−30分後から、広島市からその北西の地域にかけての広い範囲で、真っ黒い雨が降りました。原子爆弾の雲に含まれた多量の放射能を含んだ細かいチリが上昇気流で吹き上げられたための降雨です。
 炎の街から逃げ出したばかりの人々、市の郊外で市中にいる肉親の安否を気遣う人々が、黒いにわか雨に打たれました。ねっとりと黒くぬれた人々は、それが核兵器のもたらす放射性降下物、つまり放射能の雨であることを、まだ知りませんでした。

 井伏鱒二の小説『黒い雨』の主人公がその後に発病した「原爆症」も、この雨によるものです。この雨の広がりはこれまでの調査で、長径およそ30kmのだ円形の区域とされていますが、もっと広いという指摘もでています。


被爆後の10日間

 原子爆弾が投下されてからの10日間は、広島にとっては「被爆直後の10日間」で あると同時に、「まだ戦争中の10日間」でした。

 国は陸海軍の調査団を派遣、専門家も動員して被災の状況を調べました。8月10 日にはこの爆弾を「原子爆弾」と特定。同日、「米国政府を糾弾するとともに即刻 かかる非人道兵器の使用を放棄することを要求する」と米国に抗議しました。しか し国民には「調査中」とだけ伝えました。

 広島では、県庁も市役所も大被害を受けたため、関係の地方機関が場所を変えな がら、応急対策について協議。8日の軍官民連絡会議で、行政機関が救護、復旧に 全力を挙げるため、警防団でも罹災(りさい)証明を発行、患者の収容所で早急に 名簿を作って掲示、給食をあと1週間で打ち切り配給制に移す、といった方針を決 めています。

 被災した人々は、郊外の親類に避難したり、市内や周辺の救護所、お寺、工場、 軍の施設、学校に逃れました。軍の船で宇品沖の似島に運ばれた人もいました。大 やけどや重傷の人が次々に死んでいきます。そればかりか直前まで無傷に見えた人 も急に死んでいきます。髪の毛が抜けたり、激しい下痢に襲われる人もいます。

「ただごとではない」。人々はこの爆弾の異様な働きに、大きな不安に包まれてい きました。

 敗戦の日が来ました。15日に終戦の詔勅(しょうちょく)が発表されるまで、日 本政府が無条件降伏することをめぐって会議を重ねたことは後で知らされました。 ラジオから聞こえた昭和天皇の発表は、当時、「玉音放送」と呼ばれました。受け 止め方は人によって違いました。敗戦、打ちひしがれた人、戦争が終わってほっと した人、電灯がつく生活に安心した人などさまざまです。

 しかし原子爆弾の被害の傷口はまだ大きく深い口をあけたまま、なおも広島の人 と街をのみ込もうとしていたのです。

広島市の原爆被災範囲(地図)


被爆後4カ月

 被災した人々の「生きるため」の条件は過酷でした。焼け野原の市街地は、8月 は肉親を捜す人々が絶えず、無数の遺体が焼かれました。9月は被災調査に訪れた 東京大学、京都大学などの医師が被爆者に健康への注意を呼び掛けました。そして 17日、広島地方を枕崎台風が襲いました。10月には幟町国民学校などで授業が始ま り、11月に原爆と台風の被害から広島鉄道管理局管内の線区がほぼ復旧。12月には 広島市が保管していた住所、氏名不詳の遺骨約 6,000柱が己斐町の善法寺に移され ました。冬へ向かう被災者には、住む家も衣服も食料も乏しく、何もかも不安な年 の暮れでした。
●激減した人口

 被爆1カ月後の9月6日、広島市内では役所や学校、職場で、亡くなった人の 法要や慰霊祭がありました。広島県の高野知事は「市街地は相当な広場と広幅の 道路とによって将来火災の延焼予防や菜園建設をはかりたい」と談話を発表、 「市内に13万人が居住」としました。被爆前の一般市民が30万人弱だったとして も大きな減少です。広島市は翌年1月1日現在で被爆4カ月後の人口を 151,693人 と発表しました。1945年6月末現在の市民の数よりも93,730人減ったとしています。

●米国の調査団

 9月8日、広島市に米国の原子爆弾災害調査団がやってきました。ファーレル代将ほか12人のスタッフです。このころ、市内にはすでに全国から大学の医学者らが調査や医療支援に訪れていました。米国の調査団は、人的被害・医学分野でこれらの専門家の調査結果、物理的破壊などの調査で日本の報道写真家や映画スタッフによる膨大な撮影資料を集め、米国に持ち帰りました。それが米国からの返還資料として、日本で公開されたのは28年後の1973年のことでした。

●ヤミ市

 原子爆弾は経済的にも大きな被害をもたらしました。日用品を含む生活必需品の生産は出来ず、衣服や食料の流通の仕組みも破壊されました。それを緊急に補ったのが広島駅前などにできたヤミ(闇)市でした。ここでは近郊の町や村から集めてきた野菜や服、家具、旧軍の倉庫にあった軍服、靴、薬品など、暮らしに必要な物は何でも売り買いされました。人々の暮らしは厳しく12月7日には広島戦災者同盟大会が開かれ、知事あてに生活物資を求める決議文が出されました。

●枕崎台風

 8月末から降り続いた雨は、9月17日朝、とうとう豪雨になりました。川が増水し、下水は逆流、バラックや半壊家屋が吹き飛び、汽車も不通に。広島地方気象台の記録ではこの日の総雨量は197ミリ。死者・行方不明者は2,012人に上りました。この災害で、原爆調査にきていた京都大学調査班が、広島市の西、大野町にあった大野陸軍病院で山津波に遭い、真下俊一教授ら11人が即死しました。