ヒロシマの記録−遺影は語る
細工町
2000/2/21

 

爆心直下 裂けた天地

 死没者名簿 

         新たに確認された死没者 (2000/6/28)

島病院 ■ゼロメートル地点■

廃虚の爆心地。中央は1933年にレンガ造りで建てられ、柱と円形窓だけが残った島病院の跡。右奥は、爆風を垂直に受けたために倒れなかった広島護国神社の鳥居。現在の広島市民球場南側に当たる。左端に見えるのは広島商工会議所
(1945年10月、米軍撮影)

 史上初めて投下された原爆は1945年8月6日、広島市細工町29番地の2、島病院の上空約580メートルでさく裂した。現在の中区大手町1丁目、原爆ドームの南東160メートルに当たる。米軍が「リトル・ボーイ」と呼んだ原爆は、核分裂性物質ウラン235からなり、当時最大の戦略爆撃機B29が一度に3000機ほど飛来し、TNT火薬15キロトンを投下したのに匹敵するエネルギーを放った。

 火球は直径280メートルに膨れ上がり、熱線と放射線が降り注ぐ。直下の地表面の温度は3000〜4000度に達し、秒速440メートルの爆風が津浪のように起き、市内をうねった。「あの日」をとらえた原民喜の詩の一節を引けば、広島は、人類は「崩れ堕(お)つ 天地のまなか」をみた。

 島病院長の島薫さん(77年死去)は手術のため前日に出張していた広島県世羅郡甲山町から6日夜戻り、目の当たりにした光景を、回想録にこう述べている。

 「玄関の両側の2本のコンクリートの柱以外には何物も残っていなかった(略)病院のまわりの街路に多くの人々が死んでいた。しかし私がだれと分かったのはただ1人であった」。爆心地一帯では、米戦略爆撃調査団の報告書(46年作成)も記すように、原爆は人を「原形をとどめぬほどに炭化させた」からだ。

 2000年最初の「遺影は語る」は、爆心直下の細工町の住民と、28番地にあった広島郵便局の勤務者・動員学徒1人ひとりの被爆死を追った。

 住民世帯は40軒足らずながら、細工町は近世から続く2つの寺と、4つの医療機関、洋酒を扱った食料品問屋、広島草分けの理髪院…とデルタの街に今昔の彩りを醸し出していた。それがすべて破壊された。遺族は、肉親の最期の手掛かりすら奪われた。

 「父と弟の遺骨は見つからず、1人残った私は下宿先で家庭教師をしながら1年間、広島を歩き回りましたが…」。東京都に住む河野(旧姓岸本)美智子さん(70)が、再び広島に足を向けたのは両親と弟の33回忌だったという。

 痕跡のない「爆心直下」の遺族を捜し、住民72人の被爆死状況(建物疎開前・後の居住先、「猿楽町」「中島本町U」編で掲載した9人を含む)をつかみ、54人の遺影の提供と確認を得た。「崩れ堕ちた天地のまなか」で亡くなった人たちである。

(西本雅実・野島正徳・藤村潤平)