ヒロシマの記録−遺影は語る
広島郵便局
2000/2/24

「国に奉公」 悲運の殉職

 


      死没者名簿・職員(その1)
      死没者名簿・職員(その2)
      死没者名簿・職員(その3)
      死没者名簿(祇園高等女学校4年・本川国民学校高等科2年)
      新たに確認できた死没者(2000/6/28)

 デルタの街で「本局」の名で通った。広島市細工町28番地(現在の中区大手町1丁目)にあった広島郵便局。開設は、郵便切手が発行された1871年の広島郵便役所にさかのぼり、4年後の名称変更を経て、93年、中心街の細工町に地上3階、地下1階一部レンガ造りの局舎を構える。20世紀に入り、宇品港が兵士や物資を積み出し、迎える兵站(へいたん)基地となったことから大量の軍事郵便も扱い、国内の通信業務の拠点を成した。

 史上初の原爆は1945年8月6日、この「本局」のほぼ真上でさく裂した。爆心ゼロメートルの島病院と筋向かい。広島市編集の『原爆戦災誌』は「局舎の焼(やけ)跡には、おびただしい数の白骨と黒焦げの死体だけが、瓦礫(がれき)と共に残っていた」(第三巻)と惨状を記す。

 今回の「遺影は語る」は爆心直下の「殉職」を追った。細工町の土地区画整理に伴い、「広島郵便局殉職者之碑」は53年に南区比治山町の多聞院に建った。288人の職員や動員学徒の名前が刻まれる。碑の名前と併せて、33回忌の追悼誌『碑(いしぶみ)』に残る遺族名を手掛かりに関係者を捜し、死没者の仕事や暮らし、遺族の戦後も尋ねた。

 碑に名前がある職員173人、動員の祇園高女(現・祇園女子高)4年生40人と引率教師1人、本川国民学校(現・本川小)高等科2年生8人と教師1人の被爆死のほか、学徒3人の健在が分かった。また、祇園高女1人、局舎内の育児室にいた幼子8人の犠牲が新たに判明し、その結果、計232人の死没状況をつかみ、うち160人の遺影(広島逓信局員1人と「細工町」など住民編での掲載5人を除く)の提供を得た。

 犠牲者の多くが一家の働き手だった。母でもあった女性も少なくなく、死没職員の45%を占めた。集配業務中に被爆した広島市中区の道川貢さん(87)は「男性職員が召集でとられた後に、女性たちが臨時雇いで入ってきました」と言う。それでも足らず、祇園高女の生徒たちが44年10月から窓口や内勤業務に就き、本川国民学校高等科の男子生徒は郵便物の配達に当たった。

 政府は本土決戦に備えて45年7月、第二総軍司令部が置かれた広島に近畿以西の通信を死守する西部逓信総局を設けた。しかし、「準備をしている間に、8月6日を迎え(略)全市が廃虚と化してしまった」(『郵政百年史』)。爆心直下の「本局」は瞬く間に崩れ落ち、そこにいた「通信戦士」とされた男女職員と生徒たちは、全員が9日までに亡くなっていた。

(西本雅実・野島正徳・藤村潤平)