<略歴>
1947年、米イリノイ州アーバナ生まれ。
1978年、ウェストジョ ージア大臨床心理学修士課程修了。
1948年に宣教師の父とともに来日 以来、通算二十年日本に在住。経営コンサルタントを経て86年から 現職。
1998年、GPAを広島市に創設。  

中国論壇
2000年4月1日
印パと被爆地 ヒロシマの使命 再認識
スティーブ・リーパー
  被爆の実相とともに、ヒロシマの平和への願いを世界の人々に伝 えたいと願う私たち「グローバル・ピースメーカーズ・アソシエー ション(GPA)」のメンバー五人は、二月初旬から約二週間、カ シミール地方の領土の帰属問題をめぐり核対峙(たいじ)するインドとパキス タンを訪れた。

 インドのムンバイやニューデリー、パキスタンのラホールやカラ チなど計六都市で市民や学生らと交流。被爆体験手記を英語で伝え たりしながら、核兵器保有の無用さを両国民に訴えた。印パの対立 を和らげ、地域の平和のために広島市民がどのように協力できるか についても話し合った。

 今回の旅を通じて私は、両国の対立の現状や社会状況に深い恐怖 と悲しみを覚えた。「核兵器使用の確率は、冷戦時代の米ソ間より 印パ間の方がはるかに高い」―パキスタン人物理学者の明快な説明 は、私を震かんさせるものだった。パキスタンの英字紙の記事にも がく然とした。退役准将で元パキスタン大使というその人はこう主 張する。

 「インド軍が一斉にわが国の内部まで侵攻する。その時、パキス タンに残された打つ手は一つ。侵入したインド軍にのみ狙いを定 め、核兵器という究極のオプションを使用する。標的は軍隊だけ で、インド国民ではないことを明確に宣言しておくべきだ」―。元 大使は核戦争の本質を知らないか、さもなければインド人への恐怖 感をあおり、核兵器に依存させようと自国民を欺いているのであ る。

 悲しいのは、半世紀余に及ぶ印パ間の軍拡競争が、両国民を苦し めている現実である。両国とも天然資源は日本より豊かであり、賢 明な人たちも多くいながら、貧困から国民を救い出すことができな いでいる。

 インド人もパキスタン人も、驚くほど相手のことを知らない。両 国民とも平和を愛し、紛争は起こしたくないと思いながら、油断す れば「敵」に襲われると信じている。互いに相手を嫌い、恐れるよ うに教えられてきたが、本当は何よりも平和を望んでいるのではな いだろうか。実際、パキスタンでインド人からの平和と協力へのメ ッセージを伝えると、だれもがうれしそうに目を輝かせたものだ。

 平和交流を通じて多くの希望も見いだした。パキスタン人の女学 生のことが今でも忘れられない。彼女は原爆スライドを見、被爆体 験を聞いた後に、こう質問した。「核兵器の恐ろしさは分かるけ ど、核兵器を持たずにどうやって国を守ることができるの?」

 私は女学生に「インドが敵だと考えるのはやめよう」と言った。 「戦争とか、勝ち負けという考え方は時代遅れで、互いに譲り合う ことが必要。国を守る唯一の方法は、友人になることだよ」。けげ んそうに聞き入っていた彼女に、私はさらに言葉を継いだ。「パキ スタンが防衛のために使っているお金と労力の半分を友好のために 使えば、両国の間にすぐにも友情が芽生え、互いに安全になるだろ う」。彼女の表情は和らぎ、ほほ笑みながら「ありがとう」と言っ た。

 ヒロシマは「生き地獄だった」と被爆者が形容する廃虚の中か ら、やがて「敵」という発想を乗りこえた。ヒロシマは、核兵器、 戦争、ねたみ、憎しみや恐怖こそが本当の敵だということを知って いる。今こそ全人類が一体となって山積した問題を解決し、だれも が安心して暮らせる世界をつくるときなのだ。

 非被爆者ばかりの旅はまた、英語の話せる人や広島の若者 が、被爆者に代わって体験を極めて効果的に伝えることができるこ とを証明したと言えるだろう。ヒロシマは世界の人々、とりわけ紛 争を抱え、敵対し合う人たちの間に立ち、平和のための仲介役を 果たしうるとの確信を私は抱いた。

 私の願いは、広島市や市民らが軍縮・平和へのイニシアチブを一 層発揮し、私の母国である核超大国アメリカや、印パなどの敵対国 家に対し「ヒロシマの心」を広げるための活動を、真剣に、継続的 に取り組んでほしいことである。私自身も微力ながらその戦列に今 後も加わるつもりである。  (翻訳家)

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