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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 <19> 原爆報道 核時代 終える日まで

 1945年8月6日、広島へ投下された原爆で人間はどうなったのか、今に未来に何を問い掛けているのか―。核兵器を使い持つ国家の側からではなく、悲惨を強いられる人間の側から見つめ考えようとするのが「原爆報道」だ。試行錯誤があった。形骸化しているとの批判も免れない。だが「核時代」が続く限り務めは終わらないだろう。報道も継承と広がりを求められている。被爆70年は未来を切り開く一つの節目であり中継点でもある。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 原爆により報道機関も壊滅的な打撃を受けた。中国新聞は、広島市上流川町(現中区胡町)の本社ビルが全焼し、建物疎開作業への動員を含め本社員の3分の1に当たる114人が死去する。県内で唯一の新聞発行が止まった。

 「広島市は全焼、死者およそ十七万の損害を受けた」。同盟通信(現共同通信)広島支社の中村敏(さとし)編集部長=当時(36)=は、「8月6日」午前11時20分、市北部の祇園町(現安佐南区)の広島中央放送局原放送所から専用線がつながった岡山放送局を通じて連絡した(53年刊の「秘録大東亜戦史 原爆国内編」に収録)。

 毎日新聞広島支局の重富芳衛記者=同(37)=は、立町(現中区)の自宅から脱出すると可部署(現安佐北署)に向かい、「全市全滅す」との原稿を警察電話で送るよう依頼した(56年刊の「らくがき随筆」)。

 広島壊滅の第一報は、自らも被爆した記者たちが未曽有の渦中から送稿した。しかし、被害の甚大さを信じてもらえなかったり、届かなかったりした。「幻の報道」となった。

 全焼する中国新聞本社に駆け付けた記者たちは、屍(しかばね)の街を手分けして歩き、宇品町(現南区)の陸軍船舶司令部から無電で代替紙を要請する(72年刊の「中国新聞八〇年史」)。情報伝達に不可欠な新聞は9日付から広島へ届く。朝日、毎日新聞の両西部本社が「中国新聞」の題字を入れて印刷した。

70年不毛説に震撼

 終戦詔書が15日にラジオ放送され、政府・軍の報道統制も崩れると、原爆の惨状がせきを切ったように伝えられる。

 被爆地が震撼(しんかん)したのが、米科学者が述べた「70年不毛説」だ。「今後七十年間は草木はもちろん一切の生物は棲息(せいそく)不可能」と毎日新聞大阪版8月23日付で報じられた。

 米陸軍省は、原爆投下の2日後には放射能の影響を否定する声明を発表。9月9日に広島へ入ったトーマス・ファーレル准将は「(投下の)二、三日後から影響はないはず」と答えた。

 自力印刷を市郊外の温品村(現東区)で再開した中国新聞は「嘘だ、七十五年説」と翌10日付で報じた。さらに「死者十一万を超ゆ」「原子爆弾症は免れず」と15日付で伝える。おきゅうの効用も紹介した。今日に続く被爆の影響は科学者も医学者も未見であった。

 連合国軍総司令部(GHQ)は9月19日、新聞をはじめ出版、ラジオ放送、映画を検閲するプレス・コードを発する。「占領軍に対して不信、または怨恨(えんこん)を招く」内容を封じた。一方、廃虚からの復興や平和に焦点を当てる報道は占領政策に沿うものとみなされた。

 もっとも「原爆」の言葉が消えたわけではない。「平和擁護広島大会」が「原子爆弾製造禁止の意見を可決」と、翌49年10月3日付中国新聞には14行の短信とはいえ「原爆禁止」の訴えが初めて載った。

 民間検閲局(CCD)は49年10月末に廃止されたが50年6月、米ソ対立を背景に朝鮮戦争が起きると、GHQが名指しし、また同調者とされた人たちが各報道機関から解雇される。広島市の平和祭(現平和記念式典)も中止となった。

 メディアが自己規制も解くのは、対日講和条約の発効で占領が明けた52年4月以降。原爆記録写真が「アサヒグラフ」をはじめ各出版物で掲載される。「原爆孤児」やケロイドが残る独身女性を取り上げるが、まなざしは多くが同情の域にとどまっていた。

 大きな転機は54年3月に起こった米軍水爆実験によるビキニ事件からだ。「死の灰」への恐怖から「原水爆禁止」を求める国民的な声が一気に高まる。初の原水爆禁止世界大会が広島市で開かれた翌56年、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が結成された。

 被爆地でも「社会の片隅に追いやられていた」人たちが立ち上がり、国の援護を求めていく。切実な訴えや運動の広がりを報道も後押しするようになる。

 「原爆が人間の生活と思想になにをもたらしたかをみつめてみよう」。原水爆禁止運動が政党・労組の路線対立から混迷していく62年夏、中国新聞は「ヒロシマの証言」と題して被爆者・遺族や医師が直面する実態を社会面で33回ルポする。

「白書」の作成提唱

 社説は64年8月6日、「今日こそ原爆の威力ではなく原爆の悲惨さが徹底的に調査され、世界に知らされなければならぬ」と「原爆被害白書」の作成を提唱する。日本学術会議も支持し、厚生省の被爆者生存調査実施へとつながる。

 さらに65年夏、「世界にこの声を」「炎の系譜」「年表」からなる1ページ特集「ヒロシマ二十年」を30回連載。苦しみを強いられる人間の側から原爆問題を見つめる報道の礎を成す。

 「世界にこの声を」も取材した浅野温生さん(83)は、読者からのはがきに葛藤を覚えたという。「忘れたい傷をえぐるような連載はやめてほしい」。自身は広島二中(現観音高)2年の夏に被爆し、前日と同じ作業現場へ動員された1年生は全滅した。原爆体験は言い尽くせぬ、と80歳をすぎて自らも証言をする。

 被爆20年の歩み「炎の系譜」を担った記者は連載後、植民地支配にも遭った末に放置された在韓被爆者の存在をルポし、救援の必要性を説いた。70年代には「孫振斗裁判」を支援し、在外援護の扉を開けた。

 後に広島市長となった平岡敬さん(87)は、「自国の過ちを認めようとしない姿勢は米国の原爆投下責任への不問と通底している」と指摘する。「被爆者は、民衆を見捨てる国家の論理を否定する存在でもある。殺された死者は救われてもいない。フクシマもみた今こそ人間と核との問題を、非人道性を突き詰めて考えるのがヒロシマの務めだろう」と問い掛ける。

 「ヒロシマ戦後史」を昨年に著した宇吹暁さん(68)は、原爆報道はそれ自体と継続性において「独自なものだ」とみる。

 NHKの「爆心地復元運動」(66年)や「原爆の絵」募集(74年)、朝日新聞社の被爆者面接調査(67年)…。多様な視点と取り組みからのキャンペーン報道が展開されてきた。

 「メディアが被爆の実態を掘り下げ、大学や行政、市民を巻き込んだ運動の提唱者となり、継承を促す担い手ともなった」と評価する。同時に「近年は同じような分かりやすい事柄を取り上げ、ヒロシマを単純化した物語にもしている」とくぎを刺す。

 2015年3月末現在、被爆者の平均年齢は80・13歳となる。証言できる内容や残された時間はさらに限られてくる。平和行政や市民の継承活動は多様化する半面、イベント的な色彩も進んでいる。

 しかし、積み重ねられてきた原爆をめぐる記録と記憶は膨大なものがある。死者や家族の思いが刻まれた遺品や手記、さまざまな表現活動、国内外の研究調査報告…。それらを今に引きつけて未来も考えることが、さらに重要になっている。ヒロシマを語り伝えることは、メディアにとどまらず私たち一人一人に託された営みである。

 「伝えるヒロシマ」の特集と連載は本日付で終了します。取材は編集委員・西本雅実と報道部の水川恭輔、明知隼二、田中美千子が、紙面編集は整理部の武内宏介が担当しました。

広島原爆とメディア

1945年 8・6 米軍が広島へ原爆を投下
      8・7 大本営が「新型爆弾」と発表。ラジオ放送に続き、全国の
          各新聞が翌8日付1面トップで発表を報道
      8・7 米INS通信が、原爆開発計画に参加した科学者の「放射能
          はおよそ70年は消散しない」との見解を報道
      8・9 全焼の中国新聞社は、朝日、毎日新聞両西部本社の代行印
          刷で発行再開
      8・10 政府は「非人道的な兵器の使用を放棄すべき」だと米国
          に抗議。朝日新聞大阪版翌11日付が「原子爆弾」を見出
          しで使う
      8・15 終戦詔書がラジオ放送
      8・19 同盟通信(現共同通信)の中田左都男記者が撮った廃墟
          の写真が全国各誌で掲載
      8・23 毎日新聞大阪版が「今後70年は棲(す)めぬ」と不毛
          節を紹介。西部版の中国新聞27日付で広島へ伝わる
      8・31 ハワイ出身のレスリー・ナカシマ元UP東京支局員が母
          を捜して入った広島ルポを、ニューヨーク・タイムズが掲
          載
      9・3 中国新聞が温品工場(現東区)で自力印刷を再開。日本映
          画社が「広島市の惨害」を撮影。欧米の新聞・通信社従軍
          記者が広島入り
      9・4 朝日新聞大阪版が「正視に堪えぬこの残虐さ」と、宮武甫
          写真部員が8月9日に入り撮った被爆者4点を掲載
      9・11 中国新聞が「原子爆弾の解剖」と都築正男東大教授らの
          座談会を3回にわたり報道
      9・19 連合国軍総司令部(GHQ)が検閲(プレス・コード)
          を指令
   46 7・6 松重美人中国新聞社写真部員が被爆当日に撮った5枚のう
          ち2枚を「夕刊ひろしま」が掲載
   47 8・6 第1回平和祭(現平和記念式典)をJOFK(現NHK広
          島放送局)がラジオでローカル中継
   48 8・6 平和祭を全国中継
   52 4・28 サンフランシスコ講和条約発効
      6・5 映画「原爆の子」(新藤兼人監督)の広島ロケが始まる
      8・1 「世界」が「八月六日の記念」を特集▶「婦人公論」が
          「原爆の日のヒロシマ」などを掲載
      8・6 「アサヒグラフ」が「原爆被害の初公開」と広島18点、
          長崎8点の写真を掲載。70万部を発行
      9・29 米雑誌「ライフ」が「米国で初公開」と広島・長崎14
          点の写真を掲載
     11・15 「改造」が「この原爆禍」と208㌻の特集を発行
   53 8・1 NHKが「原爆障害者に救いの手を」と9日まで特番をラ
          ジオ放送
   54 3・1 ビキニ水爆実験
      8・1 広島一中遺族会の私家版手記集「追憶」を「サンデー毎
          日」が特集
   55 8・6 原水爆禁止世界大会が広島市で開催
   56 8・10 日本原水爆被害者団体協議会が発足
   62 7・15 中国新聞「ヒロシマの証言」33回連載
   64 8・7 広島戦災児育成所の出身者を「アサヒグラフ」が特集(2
          9㌻)
      8・31 米軍の施政権下にあった「沖縄の被爆者たち」を中国新
          聞が11回連載
   65 7・8 中国新聞「ヒロシマ二十年」。1㌻特集を30回連載
      7・20 広島市が50年に募集した「原爆体験記」を朝日新聞社
          が刊行
     11・25 中国新聞「隣の国・韓国」が在韓被爆者を初めてルポ
   66 8・3 NHK「爆心半径500㍍」が中国地方で放送。爆心地一
          帯の復元運動が広がる
     11・23 広島テレビ「人間、そのたくましきもの」。被爆者夫婦
          の生活を描き芸術祭奨励賞
   67 8・4 NHK「軒先の閃光~よみがえった爆心の町」が全国放送
   68 4・20 日本映画社が45年10月に撮影し、米軍の接収を経て
          返還された「広島・長崎における原爆の影響」がNHK教
          育テレビ、中国放送などで放送
   69 10・9 広島二中1年生の死をたどる広島テレビ「碑」が放送
   70 8・3 広島市と中国新聞社、中国放送、広島テレビが企画した記
          録映画「ヒロシマ・原爆の記録」(29分)が完成。6日
          全国テレビ放送
   72 5・5 中国新聞社が「原爆の記録」英語版を欧米やアジアの新聞
          14社に寄贈
   73 6・4 「はだしのゲン」(中沢啓治作)が「少年ジャンプ」で連
          載開始
   74 6・8 小林岩吉さん(当時77歳)が描いた原爆の絵を、NHK
          が「届けられた一枚の絵」とローカル放送
   75 7・11 「ヒロシマ・原爆の記録展」が札幌市で。全国5都市を
          巡回。広島県、広島市、中国新聞社、NHK中国本部の主
          催
      8・6 NHK「市民の手で原爆の絵を」が全国放送。2年間で2
          225枚が寄せられる
   79 7・25 両市編集の広島・長崎の原爆災害」を岩波書店が発効
          (504㌻)
   84 8・5 NHK特集「核戦争後の地球」が2夜放送。視聴率24.
          1%
   85 1・1 中国新聞「段原の700人」。老いる被爆者の現状や意
          識、援護の課題を掘り下げ86回連載
      7・29 米雑誌「タイム」が「核時代」と被爆者ルポなどを特集
          (27㌻)
      8・6 平和記念式典を米三大ネットワークのABC、CBS、N
          BCが初めて全米に衛星中継。
   89 5・21 中国新聞「世界のヒバクシャ」。世界15カ国の核被害
          者を追い134回連載
   95 1・22 中国新聞「検証ヒロシマ」。半世紀の歩みを2㌻特集3
          0回。「年表ヒロシマ」(1946㌻)7月刊行
      7・24 米雑誌「ニューズウィーク」が「なぜ落としたか」と原
          爆投下の史実や日米の認識の溝を特集(24㌻)
   98 10・15 中国新聞「遺影は語る」。爆心地一帯の2369人の
           死没状況を3年間かけて掘り起こす
   99 12・22 AP通信が20世紀の二十大ニュースを発表。米軍の
           広島・長崎への原爆投下を1位に。2位はロシア革命
 2000 11・26 中国放送ラジオドラマ「ヒロシマの黒い十字架」。芸
           術祭大賞
   03 9・30 「夕凪の街」(こうの史代作)が「漫画アクション」で
           開始
   04 7・20 被爆資料の募集を広島、長崎両市の原爆資料館、NHK
           両放送局、中国新聞、長崎新聞が開始
   08 1・1 中国新聞社が「ヒロシマ平和メディアセンター」を開設
           し、被爆地からの情報をウェブで多言語発信

(2015年8月3日朝刊掲載)