×

連載 被爆70年

[伝えるヒロシマ 被爆70年] 1945年の「入学願」現存 広島一中元教諭保管 生存の下迫さん「対面」

 爆心地から約800メートル。広島一中への1945年「入学願」つづり26通があった。わずか4カ月後に原爆死した1年生288人のうち、18人の記録を含む。後身の国泰寺高(広島市中区)で26日、慰霊祭が営まれた。校舎で被爆して生き残った元1年生2人が、自身や亡き同級生の名を確かめ、資料を残した教諭の孫と初めて会った。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 「こんなものがあったとは」。下迫次郎さん(82)=中区千田町=は、自らの名前が書かれた表裏2枚の「入学願」に目を凝らした。出身の千田国民学校から45年3月9日付で「教科概評」や「志望所見」などが記されていた。

 同じように校舎の下敷きとなり脱出した、児玉光雄さん(82)=南区宇品海岸=も「学籍簿も何もかも焼けたのに」と驚いた。

 「入学願」は、翠町(現南区)にあった寄宿舎の舎監も務めた中島秀継教諭(1901~76年)が残していた。追悼誌「ゆうかりの友」(74年刊)によると、8月6日朝は寄宿舎にいた。「大火傷(やけど)せる生徒次々と帰る。舎監宅を病室として収容す」

 中島教諭は、生徒計353人、校長はじめ教職員15人が犠牲となった未曽有の事態への対処に当たり、翌9月からは教頭として学校の再開にも努めた。親としても、県女(現皆実高)1年生の長女正子さん=当時(13)=を失っていた。

 一連の資料は、47年に郷里の熊本市への転勤となった折に携え、被爆時は一中2年だった長男胖(ゆたか)さんが受け継いでいた。一昨年に亡くなった胖さんの遺品を整理した長女の裕美子さん(53)=福岡市西区=が見つけた。

 「祖父や父は広島でのことは語りたがらなかったが、思いがあり、これらの資料を残したのでしょう」と推し量る。被爆前の一中や寮生活の写真もある。

 下迫さんは、死線をさまよった被爆の翌年2月、中島教頭に復学を伝えたという。児玉さんも「死んだ級友らの記録であり、中島先生に感謝したい」と感慨深げに話した。

 慰霊祭に初めて参列した裕美子さんは、資料を国泰寺高へ寄せることを親族で話し合いたいとしている。

(2015年7月27日朝刊掲載)