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連載 被爆70年

[ヒロシマは問う 被爆70年] 核兵器廃絶へ 次の一歩 総集編 <上>

 戦争で核兵器が初めて使われて70年。国際社会では今、かつてないほど核兵器の非人道性についての認識が広まっている。それは体を傷つけられ、健康不安にさいなまれ、家族を奪われた被爆者が訴え続けてきた結果でもある。

 しかし地球上には今なお、1万6千発に上るとされる核兵器が存在する。「国益」の名の下に、その存在を切り札として使う国がある。

 連載「ヒロシマは問う」は、核兵器廃絶を阻む国内外の「壁」を見据えてきた。連載の終わりに当たり、アンケートで集めた国内外の被爆者や高校生の声とともに、それを乗り越える方策を提言する。(道面雅量、金崎由美、田中美千子、山本慶一朗)

■非人道性の中身を具体化させる 歳月経てなお続く苦悩

 米アメリカン大の原爆展会場。「原爆の図」の前で、男性が涙を目に顔を伏せていた。第2次世界大戦に従軍した退役軍人ギル・ローゼンバーグさん(94)。絵の題名は「米兵捕虜の死」だった。日本で撃墜された米軍機の乗組員が、拘置先の広島で原爆に遭った情景が描かれている。

 ローゼンバーグさんは戦時中、旧日本軍と激戦になった太平洋のテニアン島のレーダー部隊にいた。「私も捕まって同じ目にあっていたかもしれない」。想像し感情が高ぶったという。

投下を正当化

 原爆投下の是非について意見を聞いてみた。すると「日本は中国にひどいことをしていたじゃないか」。声を荒らげた。ただ会場で被爆者の悲惨な証言を聞き、戸惑いも隠せない。「なぜ米国は長崎にも落としたのか。日本は早く降伏するべきだった」と言葉を絞り出した。

 「原爆はアジアの国々を日本から解放した」「米軍が日本上陸作戦をすれば失われたはずの多くの人命を救った」―。原爆投下を正当化する意見は、これまでの取材で記者が何度もぶつかった「壁」である。米国の退役軍人たちの間ではとりわけその意見が強固だ。

 だがその「原爆神話」は、原爆の非人道性に目を背けることで保たれているともいえる。20年前、スミソニアン航空宇宙博物館での被爆資料展示計画が問題化した際、広島から貸し出す予定だった「黒焦げの弁当箱」は早々と展示リストから削られた。

 あどけない学童も無差別に犠牲となった非人道性の証し。展示関係者によると、この小さな資料が原爆神話を大きく揺さぶるからこそ、拒絶されたのだという。今回は、渡辺玲子さんの弁当箱のレプリカが出展されている。

 非人道性をめぐる議論は今、核拡散防止条約(NPT)再検討会議などでも避けて通れない論点となり、核兵器保有国、核抑止に依存する国を揺さぶる。

 その流れを太く強くしていくために、被爆地は「非人道性」の言葉でくくられる中身を、より具体的に明示することだろう。

 核兵器の非人道性は、大量の市民を無差別に殺傷する「一瞬」だけにあるのではない。放射線によって遺伝子を傷つけ、被爆後10年たって症状が出た佐々木禎子さんに象徴されるように、長年にわたり被爆者の体に影響を及ぼす。今も相次ぐ原爆症認定訴訟が示すように、70年たってなお健康不安は続く。子や孫への影響の有無も、明らかになっているとはいえない。

 日本国内でも「東京や大阪の空襲でも多くの人が亡くなったのに、なぜ広島と長崎だけがクローズアップされるのか」との意見は根強い。核兵器の特異性がきちんと伝わっているとはいえない状況だ。

民の目で見る

 5月22日までの4週間、米ニューヨークの国連本部で開かれたNPT再検討会議。日本の意向で最終文書の当初案に盛り込まれた「世界の指導者に広島、長崎の被爆地訪問を要請する」の文言が、中国の反対で削除される一幕があった。

 中国は「日本は自らを第2次世界大戦の被害国として描こうとしている」と主張。韓国も同調に動いた。日本の「核兵器がもたらす非人道的な結末を各国のリーダーに、その目で見てほしい」という純粋な訴えが、歴史認識というカードで外交問題にすり替えられることを被爆地は許すわけにはいかない。

 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」広島支部長で、台湾や中国の被爆者とも交流してきた豊永恵三郎さん(79)はこう指摘する。「被害国か加害国か、国の枠で考えても仕方がない。被害も加害も入り組んで、民衆が犠牲になるのが戦争だ。原爆被害を国ではなく民の目で見詰め、前へ進むことが大事だ」

 被爆地の訴えの力をさらに高めたい。被爆者が「もう誰にもこんな思いはさせたくない」と語る時、その「誰」に国籍はない。

■伝承者の裾野を広げる 成り代わって語り継ぐ

 今春、50人の第1期生がデビューした。高齢化する被爆者に代わって被爆体験を伝える人を育てようと、広島市が2012年度から養成してきた「伝承者」。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)で証言活動を始めている。

 「ご本人に聞いてほしかった」。今月中旬、伝承者の水野隆則さん(57)=安佐北区=が語ったのは、昨年11月、85歳で亡くなった松島圭次郎さんの被爆体験だ。幽霊のような避難民の列を見たこと、燃えさかる街に「広島の死」を感じたこと、それでも「神国日本」は負けないと信じたこと…。

 「『あんたに任せるわあ』と遺言をいただいたんです」と水野さん。一言一言に心を込め、継承を誓う。聞きに訪れた中川恭子さん(62)=南区=は、松島さんが中学校の英語教諭だった時の教え子。「中学時代に先生の口から被爆体験を聞いたことはない。当時はまだあまりに生々しく、つらかったのか」。水野さんを通じ、思いをたどる。

 伝承者は、市の委嘱を受けた被爆者から原則3年をかけ、体験を受け継ぐ。市はこれまでに32人の被爆者に指導役を委嘱した。だが、松島さんのように亡くなる人のほか、体力的に難しくなり、伝承者の引き受けを中止する人もいる。

 被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者の平均年齢は約80歳。いつか肉声の証言を聞くことができなくなるという歳月の「壁」が迫る。壁の向こうへ、被爆者の訴えをどう引き継いでいけるか。伝承者が今向き合っている課題は、核時代に生きる人すべてにも問われている。

 水野さんが伝承者に応募したのは、自宅で介護している母の変化に背を押されたからという。「家族の被爆体験を全く語らなかった母が、今になって急に語り始めた。思い残しがあったんでしょう」

 母方の祖母は33歳の時、駆り出された建物疎開の作業中に被爆。「か細い息でトラックで運ばれた」との目撃談が伝わるだけで、遺骨は見つかっていない。戦後、勲章が送られてきたが、母は倉庫にしまい込んで見向きもしなかった。

 「悔しいよね。あんた、何とかしてえや」。自らも被爆者である母はそう言って、水野さんに勲章の存在を初めて打ち明けた。

 「語りたくても語れなかった被爆者の、無数の声が埋もれている。ならば今、表に出てきている声を少しでも生かす手助けをしたいと思った」と水野さん。伝承者として松島さんの体験を伝え切れるか、限界も重々承知している。証言の際には、自らの家族の物語も併せて語る。

 松島さんは生前、記者の取材にこうも語っていた。

 「被爆者はいずれ、いなくなる。『聞いた話だけどね、原爆とはこうらしいよ、こんなに悲惨らしいよ』で、いいじゃない。誰でも伝承者になれる。なってもらわないといけん」

 70年という時は、手記やビデオなど被爆体験の記録も蓄積してきた。原爆資料館、追悼平和祈念館、各地の図書館…。被爆者の「かつての肉声」に触れる場はたくさんある。

■私の提言

友人の絆づくりが近道

広島の被爆者 田中稔子さん(76)

 先月、米ニューヨークの高校で証言した。核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせ、現地の非政府組織(NGO)が招いてくれた。米国での証言は10回目。再検討会議の決裂にはがっかりしたが、ファイトも湧いた。核戦争を防ぎ、核兵器廃絶への流れをつくるのは私たち市民だと。

 直接語り合い、国を超えて友人となることがいかに大切か。甘い考えと言われるかもしれないが、証言活動で実感し続けている。原爆投下時の米大統領トルーマンの孫や、原爆投下機の乗組員の孫とも出会い、友人になった。顔が思い浮かぶ友人の上に、核兵器を落とせるか。素朴だが強い実感で、核兵器や戦争を拒む力になると思う。

 海外証言に本腰で取り組むようになったのは2008年から。NGOピースボートの船で世界周遊し、南米を訪れた時、ベネズエラの政府要人に「広島から来た。被爆者だ」と名乗ると「体験を語りなさい。あなたが語らなくて誰が語るのか」と言われた。「忘れたい」と思ってきたが、目が覚める思いがした。

 5年前の米国での体験も忘れられない。イスラエルや米国を憎む、パレスチナ人留学生との出会い。「原爆でそんな目に遭って、どうして米国人と友達になれるんだ」と聞いてきた。「憎しみの連鎖はどこかで絶たねばならない」と伝えたら、肯定はしないが「考えてみる」と言ってくれた。

 若い世代はインターネットをはじめ、国を超えて対話し、友達になるツールには恵まれている。核兵器や戦争についても、自分の思いを臆さず発信してほしい。核兵器を禁止する条約ができる日は案外、そんな友人同士の対話が早めるように思う。

たなか・としこ
 38年広島市中区生まれ。引っ越し先の東区牛田(爆心地から2.3キロ)で被爆した。七宝作家として作品に平和への思いも表現している。

「もう二度と」の信念こそ

九州大大学院准教授 直野章子さん(43)

 被爆者の証言に直接触れることはもちろん大切だ。ただ被爆体験を被爆者の「持ち物」のように考え、早く受け継ごうという発想には違和感を覚える。体験者にしか分からないこともあるが、体験していない人だから表現できること、知り得ることもあることに気付くべきだ。被爆体験は共同作業の果実だと思う。

 「被爆体験の継承」というときの被爆体験は、体験そのものではなく「もう誰にもこんな思いをさせたくない」という信念を指している。それは戦後、被爆者運動や原水爆禁止運動の中で、ソーシャルワーカー、運動の仲間、ジャーナリスト、学生たち「同伴者」と共につくり上げたものだ。受け止める人がいてこそ証言することができ、信念としての被爆体験が形成されていった。

 また自らは被爆していなくても、親を原爆で亡くした子や、子を失った親の悲痛も原爆被害だ。それらも含めた体験の上に被爆者運動は成り立ってきた。被爆体験は、死者と共につくるものでさえある。被爆時に動員学徒だった世代は今、証言活動を担う主力だが、学友の大半を失って生き残った負い目がどれほど深かったか。年齢を重ね、死者との長い「対話」を経て、ようやく語り始めた人も多い。

 また継承していく人たちが、自分たちこそ平和を語る資格があるという特権的な姿勢では、反発を招くだろう。証言者が「同じ思いをさせたくない」という境地にたどり着いた経緯を伝えることが重要だと思う。

 残念ながら核時代はまだ続く。だからこそ、信念としての被爆体験は世界の人々にとっても大切だ。世代や国境を超えた人々が共につくり続けていくことはできると思う。

なおの・あきこ
 72年兵庫県西宮市生まれ。米アメリカン大に在学中の95年、同大での原爆展開催に奔走した。05年から現職。著書に「『原爆の絵』と出会う」など。

理屈と情 両輪で普遍性

長崎大元学長 土山秀夫さん(90)

 米国の「原爆神話」には、被爆地から訴える際に「壁」を感じる。歴史家がそれを否定する新たな史料を発掘しても、退役軍人たちは感情的に受け入れ難い。戦勝の栄光が傷つけられたという気持ちになってしまう。ただ国が犯した非道を後ろめたさから否定する傾向は、何も米国に限ったことではない。

 アジアでは「原爆は日本の支配から解放した」という考えが根強く、被爆者は常に直面してきた。「日本にはアジア侵略の罪を認めない勢力が常にいる。被害を語るだけではアジアの心をつかめない」。あるシンポジウムでシンガポールの研究者がそう発言したのを覚えている。同じ文脈だ。

 戦中を生きた被爆者の一人として、語ってきたことがある。過酷な体験をした被爆者の中には、米国を恨み、報復を訴えていた人も少なくなかった。だが、アジアでの日本の行いが明らかになってくると、「自分たちは単なる被害者ではなかった」と衝撃を受けた。過酷な体験をしたからこそ、他者の痛みを思った。

 「被害」と「加害」の間で葛藤する中で、報復心を核兵器廃絶という普遍的な訴えに変えていった。そのような被爆者の心境の変化は、訴えの質を高め、国際的な共感を広げてきたと思う。  被爆体験を広めるには、理屈だけでも情だけでも不十分。車の両輪として発信することが肝心だ。それでこそ普遍的なメッセージとして人間の心に届く。

 今後は被爆者の思いを受け継ぐ若い世代が育ってくれることを期待している。日本の若者がアジアの若者と語れば、歴史問題をめぐる厳しいやりとりにも直面するだろう。異なる考えに出合って、耳を傾け合うことが大切だ。

つちやま・ひでお
 25年長崎市生まれ。長崎で入市被爆。88~92年、長崎大学長。現在、世界平和アピール7人委員会の委員や長崎平和宣言の起草委員を務める。専門は病理学。

■アンケートから

継承の意義 若者も自覚

 連載の中で、全国の被爆者(1月1日付)在外被爆者(4月11日付)日米の高校生(5月9日付)と、3回のアンケートをした。いずれも、被爆体験の継承を主なテーマに据えた。集計結果を比べ、あらためて被爆70年の現状と課題を見る。

 「被爆体験を伝えていくためには、どんな取り組みが効果的と思いますか」

 国内、海外の被爆者に選択肢をほぼそろえて尋ねたところ、「平和教育を活発にする」を選んだ人がともに最多だった。三つまでの複数回答で、国内で45・7%、海外で44・5%。「家族が記憶を受け継ぐ」「資料館などに収まる記録の充実」などより高かった。できるだけ幅広い子どもたちに被爆体験を引き継いでもらい、より平和な世界を築いてほしいとの願いだろう。

 高校生アンケートで、これに応えるような結果も出た。被爆体験が核戦争の防止や世界の平和に与えた影響について肯定的に見る割合は、日本で90・4%、米国で72・1%と高率。国内の被爆者が80・4%、海外の被爆者が70・9%だったのに比べても高めだった。特定の高校をサンプルにしたデータではあるが、被爆体験に触れることの意義を若者は十分に感じているといえる。

 では、被爆者は実際にどれくらい体験を伝えているのか。語ったり手記を書いたり、何らかの形で伝えたことがある人は国内で74・4%、海外で63・7%だった。伝えた相手を複数回答で問うと、「子や孫に語った」が国内で70・0%、海外で76・6%と、他の選択肢を圧倒して多い。国内では「平和運動などの集会で証言した」が35・7%、「学校で語ったり修学旅行生に話したりした」が30・8%あったが、海外では「集会で証言した」は18・5%、「学校で語った」は11・7%だった。

 国内の22・7%、海外の34・4%は、家族にさえも体験を語っていない。理由を問うと、国内では、複数回答で「伝える機会にめぐり会わなかった」23・9%、「他人に伝えることは不可能だから」21・6%、「記憶をたどるのがつらいから」20・5%の順だった。海外では「記憶をたどるのがつらい」31・5%を最多に、「他人に伝えることは不可能」22・4%、「差別を招かないか心配だから」19・6%が続いた。

 アンケートに回答を寄せてくれた時点である程度、積極性の高い被爆者に絞られている可能性も考えると、体験を語らない、語れない被爆者の層はさらに厚いと思われる。平和教育への高い期待を、あの日のことを子どもたちに伝えたい、二度と繰り返してほしくないという願いの反映と見るとき、「埋もれた声」への想像力と働き掛けは、いっそう求められる。

≪被爆70年アンケート≫
 国内の被爆者1526人、海外の被爆者416人、日米の高校生749人分の回答を集めた。  海外の被爆者の内訳は、韓国191人、米国170人、カナダ11人、ブラジル38人、アルゼンチン5人、パラグアイ1人。

 日米の高校生は、基町高(広島市中区)350人、法政大高(東京都三鷹市)227人、スタイベサント高(米ニューヨーク)172人が協力した。

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広島平和文化センター理事長 小溝泰義氏に聞く

 原爆資料館の運営などを担う広島平和文化センターの小溝泰義理事長は、国際原子力機関(IAEA)での経験が豊富な元外交官でもある。核兵器廃絶の訴えをどう世界に発信し、被爆体験をどう次世代へ引き継ぐか、聞いた。

核抑止は脅しの安保。廃絶こそ市民社会の常識に

 ―理事長就任から3年目。被爆地からの発信を担う中で、どんな思いを抱いていますか。
 ヒロシマの訴えは、想像を絶する悲劇から生まれ、「誰にも繰り返させたくない」という願いに結実した。未来に向けた尊いメッセージだ。「核抑止」を包み隠さず説明すれば、無差別大量虐殺の脅しによる安全保障だ。核兵器廃絶こそ市民社会の常識にかなうものであり、世界の常識にしないといけない。

 ―しかし、その訴えがなかなか国際社会に浸透しない現実もあります。何が阻んでいるのでしょうか。
 核兵器は巨大な利権の固まりだ。国際社会で強大な力を持つ保有国に物申すのは簡単なことではない。

 だが、少しずつ変化もしてきている。例えば4、5月に開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議の際に、国連本部ロビーであった原爆展。5年前の前回なら展示が認められなかったような生々しい人的被害の写真が、今回は並んだ。また原爆投下を正当化する強固な「神話」がある米国の首都に今、被爆資料や「原爆の図」が展示されている。静かだが着実に被爆地の訴えは広まっている。

 ―これまで外交の現場で被爆地に関係したことがありますか。
 ウィーンにあるIAEAに最初に勤めたのは1987~91年。赴任する前に広島を訪れ、被爆者の話を聞いた。当時はしかし、ヒロシマ、ナガサキについて職場で口にすることなど考えられなかった。世界の核を牛耳る米ソの冷戦の最終盤だったから。

 2度目の赴任が97~2002年で、エルバラダイ事務局長の特別補佐官を務めた。彼は99年に広島を訪ねて強烈な印象を受け「IAEA主催で、ウィーンで原爆展をやりたい」と言った。補佐官として奔走し、実現した。ただ保有国の反発を避けるため「核不拡散についての教育効果」を名目にした。それが国際社会の現実でもあった。

 ―被爆体験の継承の課題をどう考えますか。
 被爆者の高齢化は避けられないが、被爆体験は被爆者しか伝えられないものではない。米国のジョン・ハーシーが46年に著した「ヒロシマ」は一例だ。戦争中、日本人を「いくら殺しても構わない存在」と見なしていた米国人に、人道的に大変なことをしたと感じさせた。

 被爆者本人の証言には、他に代えられない力がある。しかし、原爆被害があまりに残酷で、二度とあってはならないという訴えの核心は、被爆者以外の人も伝えていける。大切なのは相手の心に届く伝え方だ。

 ―平和首長会議の事務総長も務めていますね。今後の取り組みの計画は。
 加盟は今、160カ国・地域の6700都市を超えた。核兵器保有国の都市も排除しない、包括的な運動だ。敵味方を超え、同じ人間として核の原理に対抗する優れた枠組みだと考えている。この都市間の連帯を存分に活用し、ヒロシマの訴えを広めたい。

こみぞ・やすよし
 48年千葉県松戸市生まれ。70年外務省入省。IAEAに2度出向し、IAEA功労賞を受けた。在ウィーン国際機関代表部大使、駐クウェート大使などを歴任。13年から現職。

(2015年6月20日朝刊掲載)