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ジュニアライター発信

[ジュニアライターがゆく] 戦争と「あの日」 伝える島 広島・似島を訪ねて

 広島湾に浮(う)かぶ似島(にのしま)(広島市南区)は、釣(つ)りや野外活動を楽しむ人たちが多く訪(おとず)れる島です。昔はここに、大きな軍事施設(しせつ)がありました。広島に原爆が落とされた76年前、負傷(ふしょう)した約1万人が運び込(こ)まれたといわれています。地元住民たちでつくる「似島歴史ボランティアガイドの会」が4月、似島平和資料館(しりょうかん)をつくりました。中国新聞ジュニアライターは、ガイドに案内してもらい、戦争の歴史と原爆との関わりについて取材しました。

軍都の面影

検疫や捕虜収容に使う 少年の特攻訓練も

 広島港からフェリーに約15分乗り、「似島学園前桟橋(さんばし)」に着くと、地元に住む宮崎佳都夫(かずお)さん(73)と、一緒(いっしょ)に活動する秋月敏勝さん(58)が出迎(でむか)えてくれました。秋月さんは東区に住んでいますが、週末は似島で過(す)ごし、ミカンやレモンを栽培(さいばい)しています。

 まずは「似島が戦争と関わるきっかけになった場所」に行きました。海沿(ぞ)いを歩くと、崩(くず)れかけた桟橋が見えてきます。秋月さんが「海外の戦地から戻(もど)った兵士がここから島に上陸し、検疫(けんえき)を受けました」と説明してくれました。

 日清戦争が終わった1895年、兵士が伝染病(でんせんびょう)を持ち込むのを予防(よぼう)するため、陸軍が現在(げんざい)の似島学園に第一検疫所を建てました。「その規模(きぼ)は世界最大」でした。10年後の日露(にちろ)戦争の時、現在の似島臨海(りんかい)少年自然の家の辺りに第二検疫所が開かれました。検疫所が2カ所必要になるほど、多くの人が戦争に行っていたのです。

 第二検疫所は、1917~20年に第1次世界大戦で捕虜(ほりょ)になったドイツ人の収容所(しゅうようじょ)としても使われました。19年には捕虜のカール・ユーハイムが日本で初めて焼き菓子(がし)「バウムクーヘン」を焼き、後に「原爆ドーム」となる県物産陳列館(ぶっさんちんれつかん)であった捕虜の作品展(さくひんてん)に出品しました。

 第二検疫所跡(あと)地に、「原爆犠牲者診療の地」の碑(ひ)があります。暁部隊の兵士たちが、原爆で負傷した人たちを一生懸命(いっしょうけんめい)に治療(ちりょう)したり看護(かんご)したりしたことを伝える碑です。広島市内での救護(きゅうご)には、少年兵たちが駆(か)り出されました。ベニヤ板の船に爆弾(ばくだん)を積んで敵(てき)に体当たりする特攻訓練を、似島と周辺で行っていました。「マルレ」部隊と呼(よ)ばれ、親にも訓練(くんれん)のことは知らされませんでした。フィリピンや沖縄(おきなわ)に送られ、多くが亡(な)くなったそうです。

 自分と同世代の人たちだと知り、がくぜんとしました。似島の歴史をもっと知るべきだと思いました。

原爆関連の遺構

犠牲者 馬焼却炉で火葬

 似島には、原爆被害を伝える遺構(いこう)が残っています。

 日中戦争が始まった後、中国大陸から戻った軍馬の検疫を行うため馬匹(ばひつ)検疫所がつくられ、死んだ馬を処分(しょぶん)する焼却炉(しょうきゃくろ)が建てられました。ここで原爆犠牲者(ぎせいしゃ)の遺体も火葬(かそう)されました。

 一体、どれだけの人が「生きたい」と願って亡(な)くなり、馬の焼却炉で焼かれたことでしょう。人が人として扱われないのが戦争だと思い知らされます。馬匹焼却炉は、1990年に発掘(はっくつ)されました。一部が似島臨海自然少年の家に移設(いせつ)され、ひっそりとたたずんでいます。

 馬匹焼却炉の近くに井戸(いど)があります。昔は第二検疫所の生活用水でしたが、原爆投下後は、臨時(りんじ)野戦病院になった検疫所に運び込まれた負傷者の「末期(まつご)の水」となりました。「水をくれ」と苦しみ死んだ人もいて、医師(いし)や救護をした人たちは心を痛(いた)めたそうです。似島の井戸水は現在、毎年8月6日の平和記念式典で「献水(けんすい)」としてささげられています。

 色鮮(あざ)やかな花が咲(さ)く「慰霊の広場」にできた似島平和資料館にも行きました。たくさんの遺骨や遺品が後に見つかった場所です。発掘されたボタンなどの遺品(いひん)が展示され、第一検疫所やドイツ人捕虜たちの写真などが壁(かべ)一面に張(は)られています。

 似島ではこれまでに何度も遺骨が掘り出され、平和記念公園にある原爆供養塔(くようとう)に納められてきました。遺骨や遺品はまだどこかに埋(う)まっています。宮崎さんは「資料館を、似島の戦争と原爆との関わりや歴史を学ぶ場にしたい」と言いました。現在、新型コロナの感染状況に応じて開館したり休館したりしています。

記憶語る人・新江さん

けが人次々「水やるな」

 原爆で負傷した人たちが大勢(おおぜい)運ばれてきた時の似島は、どんな様子だったのでしょうか。島に住む新江堤(しんえ・つつみ)さん(86)に聞きました。

 新江さんは似島国民学校5年で10歳(さい)でした。学校では米軍機からの襲撃(しゅうげき)に備(そな)えて目と耳をふさぐ訓練などをしていたそうです。

 友達と船の上で遊んでいる時でした。突然(とつぜん)目の前が強く光ったため、体を伏(ふ)せ目と耳をふさぎました。顔を上げると海の向こうの広島市内が真っ暗です。走って家に帰りました。

 その後、トンボを捕(と)って遊ぼうと外に出ると、けが人が次々と運び込まれてきます。「顔が顔だと分からないほど膨(ふく)れ上がり、悲惨(ひさん)」でした。おばあさんと救護所に行くと、死にそうな負傷者から「水をくれ」と言われますが、兵士は「やるな」と命令します。おばあさんは担架(たんか)に乗せられた遺体(いたい)に近づき、手を合わせて一生懸命にお経(きょう)を唱えていました。

 遺体を焼く火で、夜も家の外は明るく見えました。それでも火葬が間に合わず、「防空壕(ぼうくうごう)に土葬(どそう)された」とも聞きました。新江さんは、「戦争は悲惨。絶対(ぜったい)に繰(く)り返してはいけない」と声を強めて話していました。

私たちが担当しました

 この取材は、中2森美涼、吉田真結、中野愛実、相馬吏子、谷村咲蕾、小林由縁が担当しました。

(2021年7月26日朝刊掲載)

 今回のガイドでは、「被爆したものは身の回りに意外とたくさんある。」という言葉が印象的でした。被爆建物は、原爆ドームや被服支廠など有名なものばかりがピックアップされがちです。しかし、今まで私は知らなかったけれど似島にも遺構があったように、原爆について物語ってくれるものは自分の身近にもあるのだと気づきました。今後は自分の周りにある被爆建物などから、それを身近に知ることで、平和を維持するということをより「自分ごと」として捉えていきたいです。(中2吉田真結)

 今回の取材では、「似島」という普段とは全く違う視点から原爆や戦争のことを知り、自分の視野の狭さを感じました。マルレの話が一番印象的で、自分と同じ年齢の人達が何人も何人も死んでいったのかと思うと、現代の自分との違いに愕然としました。似島の歴史はもっと大勢の人に伝えないといけないと思いました。(中2小林由縁)

 初めて訪れる似島は山に囲まれたとても静かな島でした。本当にこの島に検疫所があったのか、広島から多くの原爆負傷者が運ばれたのか、とさえ思ったくらいです。原爆投下後、負傷者がロープでくくりつけられて海水を渡り似島に連れて行かれたことや、馬の焼却炉で、亡くなった人々が焼かれていたことはかなり衝撃的でした。最後まで人が人としての扱いを受けられなかったことが分かり悲しかったです。だから戦争はしてはいけないのだと思いました。(中2中野愛実)

 似島には原爆投下時に、約1万人余りの被爆者が運ばれてきました。私はまずその数に驚きました。小さな似島にたくさんの被爆者が運ばれて、寝る間も休む暇もなく遺体を埋めていたその時の光景や心情はどうだったのだろう、と思いました。ふだんは綺麗な景色の似島を、血の色で染めた原爆は許せないとも思いました。また、その時の心情について島民の方にお話を伺ったとき、「被爆者の遺体を見て原爆の存在が怖かった」と話されていました。当時はまだ10歳だったようです。核兵器の使用は、年齢や場所問わず心と体を傷つける無差別攻撃だと感じました。(中2谷村咲蕾)

 私は今回の取材で初めて似島を訪れました。そして似島が意外にも、原爆・戦争と深く関わりがあることを知りました。また原子爆弾が投下され被害を受けたにも関わらず、あまり知られていないことに驚きました。原爆の被害は広島市内だけでなく、このような小さな島にも及んでいたことに衝撃を受けました。私たちは、もっと深く伝えていく必要があると思いました。(中2相馬吏子)

 似島の取材で一番印象に残った遺構は、移設「馬匹焼却炉」です。もともと馬の検疫を目的として作られたのですが、被爆直後は亡くなった患者を火葬するために利用したそうです。発掘調査の際に「バケツ何杯分もの遺骨が出てきた」という事実を知り、衝撃を受けました。一体何人の人が生きたいと願いながら亡くなっていったのだろうと考えると、戦争がどんなに不必要で、あってはならないものなのかということを突きつけられた気がしました。そんな思いをして亡くなる人のいない日常を、私たちの手で築き上げていきたいです。(中2森美涼)

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