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戻った観音像 災害の教訓 枕崎台風時の洪水で流出 呉の孫の元へ

「大切にしたい」

 75年前の1945年9月、終戦から間もない日本を襲い、呉市をはじめ県内にも甚大な被害をもたらした枕崎台風。同市天応大浜の福田啓一さん(70)は、「昭和の三大台風」に数えられるその猛威をくぐり抜けた観音像を自宅で守り伝えている。当時、像のあった祖父の家ごと洪水に流されながら、2年半ほど前に奇跡的に戻ってきた。「災害の怖さを忘れないためにも大切にしたい」と話す。(道面雅量)

 観音像は台座を含めた高さが約21センチの木彫で、金属の繊細な飾りも残っている。漆塗りの厨子(ずし)に守られ、背面に、福田さんの祖父多喜熊(たきくま)さん(67年、83歳で死去)が35年に仏師に作らせた旨が書かれている。多喜熊さんは戦前から呉市で運送業を営み、自宅は二河川沿いの上二河町にあった。

 75年前の9月17日、鹿児島県枕崎市に上陸した台風は、原爆被災から間もない広島市や、空襲の焼け跡が広がる呉市に記録的な大雨を降らせた。呉市では各所で川が氾濫し、土石流も発生。市史によると、死者1154人というすさまじい被害を出した。多喜熊さんの家も、二河川からあふれた濁流に押し流されたという。

 福田さん自身は枕崎台風について「伯母から『家財一切なくなった』と聞かされた程度」で、観音像の話は祖父からも耳にしたことはなかった。それが2018年の春、弟の多喜二さん(64)宛てに突然の電話があった。「うちで保管している観音さまは、あなたのご先祖のものでは」―。滋賀県長浜市に住む田中宗雄さん(79)からで、厨子に記された「福田多喜熊」をインターネットで検索、似た名前を見つけて連絡したという。

 田中さんによると「呉海軍工廠(こうしょう)に勤めていた父が、台風の後に倒木の根元で見つけたと聞いている」。終戦に伴う工廠の閉鎖で、父はまもなく滋賀に帰郷。観音像は、田中さんが元の持ち主捜しを思い立つまで、田中家で大切に祭られてきた。

 当主として観音像を引き取った福田さんは「弟が祖父に似た名前で、検索に引っかかるという幸運もあった。何とありがたいことか」と田中さんに感謝する。像が戻って4カ月後の18年7月には西日本豪雨が呉市などを襲うが、福田さん宅は無事だった。「最近は枕崎台風並みの大雨も珍しくなくなってきた」。あらためて災害への備えの大切さを思いながら、神棚に置いた像に手を合わせる。

(2020年9月17日朝刊掲載)

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