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[備後の戦後75年] シベリア抑留 不戦の思いを形に 過酷な体験 短歌や写真で

 ちょうど75年前の1945年9月18日、戦争が終わり、旧満州(中国東北部)から船に乗って到着したのはシベリアだった。機関銃を持った旧ソ連兵に促され、野宿をしながら20日以上歩き続けても、日本に帰れると信じて疑わなかった。幕舎の収容所が見えた時、掛谷敏男さん(93)=福山市伊勢丘=は「ああ、このまま捕虜になるんだなあとしか思えなかった」と振り返る。食料はほぼ与えられず、何も考えられなかったという。

 掛谷さんは42年2月、満州開拓青年義勇隊の一員として古里の坪生村(現坪生町)を離れた。当時14歳だった。旧満州では小麦などを育てるため荒れ地を開墾。その後、現地の獣医師資格を取り、傷を負った馬を手当てしていた。

 ソ連の参戦に伴い、命じられるまま馬を使って弾薬を運ぶ係に。戦場では、後輩2人が目の前で頭と腹を撃たれた。思わず駆け寄ろうとすると、掛谷さんのすぐそばも機関砲の弾が通り過ぎた。「後輩の変わり果てた姿とともに、機関砲の弾が地面に当たる『バシャバシャ』という音が今でも忘れられない」

 終戦を知ったのは45年8月16日の朝だった。「日本が負けた」と知らされても実感がなかった。

 シベリアでは、つるはしを持って炭鉱を掘り進めた。空腹で力が入らず、つるはしを振っても手のひらから離れていく。「石炭と石炭の間にある粘土質の土が食べられるとうわさで聞き、食べたこともある」

 2年近くたった47年6月に帰国。坪生村に帰り、子どもの頃に泳いだ池や懐かしい神社が見えると思わずひざまずき、しばらく動けなかった。「無事帰ってきました」と心の中でつぶやいた。実家に帰ると、母は死んだと思っていた自分が帰ってきて声も出せず驚いていた。きょうだい4人は結核で亡くなっていた。

 掛谷さんは「戦勝国の旧ソ連の子どもは氷を張った屋外でもはだしだった。戦争は負けても勝っても国民を不幸にする」と力を込める。旧満州やシベリアでの体験や不戦への思いを短歌に込め、今も詠み続ける。

 戦地で旧ソ連に捕らえられ、シベリア地域で抑留された体験者は高齢化し、年々減っている。

 シベリアから戻り、遺骨の収集返還活動に長年取り組んだ福山市の坂井正男さんは2016年、93歳で亡くなった。坂井さんは元陸軍兵士で、終戦後に2年間抑留された。82歳から現地に何度も赴き、亡くなった戦友の遺骨の返還を87歳まで続けた。

 長女の萩田敦子さん(66)は、父から戦争体験や戦後の活動をほとんど聞いてこなかった。その思いに触れたのは、遺品を整理したとき。現地で亡くなった抑留者の遺体を掘り起こして焼くなど収集活動の大量の写真を見つけ、「生き延びたのでなく死に損なった」という父の言葉が少し分かったような気がした。

 敦子さんは父の思いを形に残そうと、18年に市内で写真展「坂井正男の戦後処理」を開いた。「残された自分たちに何ができるのかと考える。頼まれれば、また写真展を開きたい」(滝尾明日香、湯浅梨奈)

シベリア抑留
 旧満州などで旧ソ連軍に捕らえられた日本の軍人や一般市民は、シベリアやモンゴルで森林伐採や炭鉱採掘に従事させられた。厚生労働省によると、57万5千人が抑留され、47万3千人が帰還した。シベリア地域で亡くなった人のうち、都道府県別で広島は1287人(8月末現在)とされる。

(2020年9月18日朝刊掲載)

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