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戦没五輪選手の遺品を母校へ 記念メダルやアルバム 旧制広島二中 現在の観音高の同窓会に

32年水球出場 広島市出身の土井修爾さん

 「戦没オリンピアン」で広島市出身の土井修爾さんの遺品が神戸市在住の長女から11日、父の母校・旧制広島二中から続く芸陽観音同窓会に寄贈された。1932年ロサンゼルス五輪水球競技に出場した際の記念メダルや写真アルバム、1期生だった二中の受験票などもある。西区の観音高は2年後に創立100周年を迎え、同窓会館に新設する歴史資料室で展示する。(西本雅実)

 長女の佐々木叔子さん(86)が「若い人たちに見て知っていただければ、うれしい」と、戦没オリンピアンの全体像を追う広島市立大名誉教授、曽根幹子さん(68)に遺品を託した。目録を作成して、この日、遺品を観音高内にある同窓会事務局に持参した。

 土井さんは袋町小から二中に進み27年に卒業。早稲田大法学部在学中に五輪初の水球競技に出場した。日本チームの成績は4位。英語で「第10回国際オリンピック大会」と刻印されたものや、東京市(現東京都)が作製した箱入りの記念メダルなどが残されていた。

 帰国後に結婚し、娘2人が生まれた。小町(現中区)に住み、父親と同じ弁護士になるはずが、日中戦争が起きた37年に少尉で応召し、広島が拠点の陸軍第五師団に配属された。訓練中に皮膚の感染症にかかり翌38年7月7日戦病死した。享年28だった。

 残された家族は45年8月6日、父與一さん=当時(59)=や母シズエさん=同(58)、妻知恵さん=同(32)=が原爆死する。一連の遺品は、叔子さんと妹が疎開していた現安佐南区に移していて焼失を免れた。

 自身は76年モントリオール大会女子走り高跳びに出場した曽根さんの調べから、戦没オリンピアンは現在までに38人が確認されている。土井さんは最も早い戦没者で、広島県出身者は5人いるという。

 「土井さんがどんな人生を歩んだのか、遺品を戦争・原爆からも捉えてほしい」。曽根さんは叔子さんの思いも込めて遺品を渡した。観音高卒業生でもある芸陽観音同窓会の音堂健治事務局長(70)は「学校の歴史として生徒たちに伝えていきたい」と答えた。

(2020年11月12日朝刊掲載)

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