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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 吉田瑠璃子さん―ヒロシマ 米で語る決意

吉田瑠璃子(よしだ・るりこ)さん(94)=米カリフォルニア州

苦しみ逝った同僚たち。郷愁に悲しみ交じる

 「広島には、戦争や原爆の悲しい思い出が残っている。それでも大切なふるさとです」。吉田(旧姓美村)瑠璃子さん(94)は米国で生まれました。太平洋戦争が始まる前に広島へ渡(わた)り、被爆。その後帰米し、現在はカリフォルニア州のロサンゼルス近郊で穏(おだ)やかに暮らしています。

 主に1800年代末から1900年代初め、日本から大勢が移民として渡米して農場や商店などで働きました。特に広島は「移民県」といわれます。吉田さんの両親たちは、ユタ州でテンサイ(砂糖大根)などの栽培(さいばい)に従事(じゅうじ)していました。

 「冬の気候は過酷(かこく)です。特に父は、誰よりも働いて広島に仕送りをしていました」。米国では24年に「排日(はいにち)移民法(いみんほう)」ができるなど、吉田さんが生まれた26年には日系移民への風当たりが厳(きび)しさを増していました。

 8歳だった35年、日本の教育を受けるため緑井村(現広島市安佐南区)の祖母宅に、妹2人とともに預けられました。県立可部高等女学校(現可部高)を卒業後、祇園町(現安佐南区)の三菱重工業に女子挺身隊(じょしていしんたい)として動員され、給料を計算する係になりました。

 45年8月6日。工場の机で、そろばんを手に台帳を広げた瞬間(しゅんかん)でした。ピカッと強い光が走った後、ごう音が聞こえ、すさまじい爆風が押し寄せてきました。窓ガラスは飛び散り、職員の悲鳴が聞こえます。窓際の人たちは破片(はへん)を全身に受け、隣(となり)の人の体から血が噴(ふ)き出ていました。とっさに頭を机の下に入れた吉田さん=当時18歳=に、けがはありませんでした。爆心地から約6・5キロでした。

 そのうち、市中心部で建物疎開作業に出ていた工員たちが戻ってきました。ぼろぼろに焼けた衣服、顔が倍に膨(ふく)れ上がった人…。寮(りょう)や講堂に運び、食用油をガーゼで患部(かんぶ)に塗(ぬ)ったり、おかゆに梅干しを入れて食べさせたりするのが精いっぱい。蒸し暑い室内に、悪臭(あくしゅう)が立ちこめました。

 被災者の身体にわいたうじ虫を箸(はし)で取りました。顔見知りの工員たちが、苦しみながら次々と亡くなっていきました。遺骨を入れた木箱が積(つ)み上がっていきます。目を覆(おお)いたくなるような光景の記憶に、後々まで苦しみました。

 終戦から2年後、再び海を渡(わた)り、両親の元へ戻りました。あの記憶を忘れようとするかのように、父の農作業を懸命(けんめい)に手伝いました。翌年、一家でカリフォルニア州に移住。22歳の時、広島県出身の秀夫さん(2014年に90歳で死去)と結婚しました。

 親戚(しんせき)に会うため1978年、31年ぶりに広島の地を踏(ふ)みました。原爆資料館に行きましたが、遺品や大やけどの人たちの写真を直視(ちょくし)できませんでした。可部高女の同級生に背を押されて20年前、被爆者健康手帳を発行してもらおうと再来日。滞在先の宿から広島の市街地の灯を眺(なが)め、涙を流しました。「焼け野原を思い出して、言葉にならない感情がわきあがってきた」。2003年を最後に、広島を訪れていません。

 原爆を使った国に住む中で、2人の娘に体験を話したことも、友人たちに伝えたこともなかったそうです。「相手を暗い気持ちにさせたくない」と思ってきました。しかし今回、「語らなければ」と心に決め、テレビ会議システムを通して初めて証言しました。一緒に暮(く)らす次女アーリーンさん(64)もそばで聞いてくれました。「いつか孫たちにも伝えたい」。新たな思いを抱(いだ)いています。(新山京子)

私たち10代の感想

反核の願い受け止める

 吉田さんが米国に戻っても差別を受けなかったと聞いて驚(おどろ)きました。被爆者であることによって、日本で差別を受けたと聞いたことがあったからです。米国で証言したことがない吉田さんは、私たちに原爆の恐ろしさを知ってほしいという強い願いで体験を語ってくれました。その思いをしっかり受け止めようと思います。(高1中島優野)

原爆被害の様子 衝撃的

 わいたうじ虫を箸で取ったという話が衝撃的(しょうげきてき)でした。私なら、ぼうぜんとして立ちつくしそうです。顔が倍に膨れ上がったり、皮がずり落ちるくらいのやけどだったり、原爆の被害は恐(おそ)ろしいです。傷(きず)ついた人たちと向き合い、一生懸命看護(かんご)された吉田さんのような人がいたことを忘れないでいたいです。(中2中野愛実)

 「娘には原爆のことについて深く話したくない」という吉田さんの言葉が心に残りました。これは被爆当時の出来事は自身が経験した過ぎ去ったことであり、人生の中のひとつのストーリーだという考えからです。広島にいる被爆者の方に比べ、海外にいる被爆者の方は、被爆証言をするチャンスが圧倒的に少ないと分かりました。今回取材させていただいたことに感謝し、これから一人でも多くの証言を伝えることに励みたいです。(高2四反田悠花)

 窓際にいた同僚の顔にガラス片が突き刺さり、血が噴き上げていた、ということに衝撃を受けました。吉田さんの職場は爆心地からも離れており、吉田さん自身は机に隠れることで爆風の影響をあまり受けませんでしたが、すぐ隣にいた人が血を噴き上げるということが、現実に起こりうるとは信じがたいです。この取材から、やはり原子爆弾はこの世にあってはならないものだと痛感しました。(中3武田譲)

 ◆「記憶を受け継ぐ」のこれまでの記事はヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで読むことができます。また、孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。

(2021年4月13日朝刊掲載)

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