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連載・特集

[ヒロシマの空白 街並み再現] 懐かしの風景 重なる惨状 原爆ドーム対岸 旧鍛冶屋町

三次の寺尾さん、父撮影の写真保管

 三次市に住む寺尾興治(おきはる)さん(81)は、父元一(もといち)さん(1944年に戦病死)が爆心直下の往時の街並みや家族を撮影した写真を大切にしている。当時の自宅は、本川国民学校(現本川小)の南側にあった鍛冶屋町。川向こうに広島県産業奨励館(現原爆ドーム)の丸い屋根が見えた。「あの頃の街が懐かしい」。被爆後に目の当たりにした惨状と重なり合う。(湯浅梨奈)

 元一さんは陸軍将校で、一家が住む官舎から中国軍管区司令部に通っていたという。鍛冶屋町は町工場や材木店が軒を連ねる一角。カメラが趣味で、後に平和記念公園となった中島本町など自宅の近所、広島駅周辺や親類宅があった観音地区を撮影していたようだ。

 「実際の父の記憶はおぼろげですが…」。興治さんが開いた古いアルバムには、生まれて間もない39年当時の自分、端午の節句を祝う親戚などのカットも並ぶ。笑顔の写真から、カメラを構える元一さんのまなざしが伝わってくる。

 元一さんは43年に中国大陸へ赴いた。母静子さんと弟2人との暮らしの中で、中島本町の「浜井理髪館」で散髪したことや、川遊びをしたことを覚えている。「本川で弟がボートから落ちた時は驚いた。いとこが拾い上げてくれたなあ」

 45年7月、父の死亡通知が1年遅れで届く。「湖南省長沙県で戦病死」とあった。これを機に興治さんたちは、元一さんの実家があった祇園町(現安佐南区)に貴重品とアルバムを携えて疎開。直後の8月6日、自宅一帯は壊滅した。

 翌日、母と鍛冶屋町へ向かった。「防火水槽に頭を突っ込んだ黒焦げの遺体を見た。忘れられない」。一緒に歩いた弟興弘さん(80)=広島市安佐南区=は「自宅焼け跡の前で立ち尽くすしかなかった、と母が後に語っていました」と振り返る。爆心地から約350メートル。「父の死亡通知があと半月遅く、疎開していなかったら、私たちの命もアルバムもなかったでしょう。父が助けてくれた」

 戦後、県内外を移り住みながら母子で苦労を重ねた。興治さんは、被爆者であることを周囲に言わず生きてきたが、現在は広島に行く機会があるたびに、平和記念公園を訪れる。「普通の暮らしがあったことを伝えたい」。10年前、写真3枚のデータを原爆資料館に寄贈した。

 その思いを、長男敏也さん(57)=三次市=は受け止める。本年度、広島市の「被爆体験伝承者」事業に応募した。「原爆に人生を変えられた父を知る被爆2世として、被爆者の記憶と平和への願いを語り継ぎたい」

(2021年6月21日朝刊掲載)

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