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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 新山与志子さん―父見つからず残る後悔

新山与志子(にいやま・よしこ)さん(86)=広島市南区

遺体一人一人確認しながら必死に歩いた

 新山(旧姓神川)与志子さん(86)は10歳の時、原爆で父の貢さん=当時(47)=を亡くしました。2日後に疎開先(そかいさき)から広島市中心部に入り、懸命(けんめい)に捜(さが)しましたが、消息(しょうそく)は分かりませんでした。「せめて最期をみとりたかった」と話します。

 両親と3人の姉がいる6人家族でした。1945年当時、新山さんは、富士見町(現中区)の自宅から基町地区にあった広島陸軍偕行社付属済美国民学校に通っていました。しかし、広島も米軍の空襲(くうしゅう)に遭(あ)うかもしれないと、4月に知人を頼って可部(現安佐北区)に疎開。可部国民学校(現可部小)に転校しました。

 疎開先では、祖母と叔母、いとこの3人と一緒に暮らしましたが、家族と離(はな)ればなれになった寂(さび)しさは大きかったといいます。6月ごろに突然、貢さんが可部まで訪(たず)ねてきました。末っ子で甘えん坊だった新山さんを心配して、様子を見に来たのです。

 一緒に学校へ行ってくれた貢さんは、担任教諭にあいさつした後自宅に戻っていきました。新山さんは校舎の窓際(まどぎわ)から、可部駅に向かって歩く父親の背中をずっと目で追ったそうです。「虫の知らせだったのでしょうか」。それが、生前に見た最後の姿になりました。

 8月6日朝、遠くから大きな爆発音が聞こえました。しばらくすると、やけどで皮膚(ひふ)が垂(た)れ下がった人たちがトラックで次々と学校に運ばれてきます。「家族はみんな死んだのかもしれない」。その日の真夜中、母親と2人の姉が可部に逃(に)げてきました。母親は自宅で下敷(したじ)きになりましたが、はいだして軽いやけどで済(す)みました。もう一人の姉も無事でした。しかし自宅は全焼してしまいます。

 貢さんは、原爆が投下された時、すでに勤務先の日本勧業銀行広島支店に出ていました。爆心地からわずか約1キロでした。

 8日、帰ってこない父親を捜すため、新山さんは一番上の姉と可部から市中心部に入りました。散乱(さんらん)したがれきや、鼻を突く臭(にお)い…。重なった遺体を一人一人確認しながら必死に歩き回りました。

 銀行の建物は内部を全焼し、外壁(がいへき)だけが残っていました。誰かが壁に炭で「住吉橋のたもとにおられます」と貢さんの居場所を書き残していました。かすれた文字を手掛かりにすぐ向かいましたが、見つけることはできませんでした。

 数日間、似島(南区)や廿日市の救護所を尋(たず)ね歩きましたが、消息は不明のまま。父親に似た大柄(おおがら)な男性を見かけるたびに、駆(か)け寄って確かめたといいます。

 後に、炭で伝言を残してくれた人から「人相が分からないほど大やけどをした人に『神川ですが』と声を掛けられた」と聞きました。船に乗せた直後に倒(たお)れこんだと証言する人も。「一人で苦しみながら亡くなったのだろう」と考えると、見つけることができなかった後悔(こうかい)が残りました。遺骨の代わりに愛用していた湯飲みをお墓に入れました。

 家を失い、残された家族で親戚宅に身を寄せました。戦後、父親と同じ行員になろうと広島銀行に就職。24歳で結婚し2人の子どもを授かりました。

 2000年、被爆により廃校(はいこう)になった済美国民学校の卒業生たちがまとめた冊子に手記を寄せました。ただ「思い出したくない」と、家族以外に体験を語ったことはありません。

 被爆体験を後世に残すため、最近は孫(筆者)たちが戦前の家族写真の整理を手伝ってくれます。おかげで少しずつ前向きに話せるようになりました。「家族の絆(きずな)を大切に、命の尊さを感じてほしい」と伝えています。(新山京子)

私たち10代の感想

心境想像し悲痛な思い

 新山さんは、疎開先で会ったのを最後に、被爆した父親と再会することはできませんでした。当時の心境を想像し、悲痛(ひつう)な思いを抱(いだ)きました。平和な社会で暮らしているがゆえに、幸せを当然のものと感じてしまっている人が多いと思います。私はそんな人々に原爆の恐ろしさや、当たり前の日常の大切さを発信していきます。(高2長田怜子)

平和への考え深めたい

 新山さんにとって、被爆体験は「思い出すのも嫌」で、他人に話すのは初めてだそうです。つらい話をしてくれたことに感謝したいです。「自分の事だけでなく、みんなの事を考えられる人になってほしい」という言葉に、心の温かさを感じました。ジュニアライターの活動を始めたばかりですが、もっと平和への考え方を深めていきたいです。(中1戸田光海)

 原爆投下の2ヶ月前、急に疎開先の新山さんを訪ねたお父さん。「まさかあの日がお父さんとの最後の日だとも思わず、布団に潜り込んで一緒に寝たんよ」と、寂しそうに振り返る新山さんの姿に胸が苦しくなりました。家族がいて、学校に行けて、伸び伸びとした生活を送れていることに感謝をし、1日を大切に過ごしていきたいです。(高2岡島由奈)

 ◆「記憶を受け継ぐ」のこれまでの記事はヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで読むことができます。また、孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。

(2021年6月28日朝刊掲載)

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