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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 輜重隊遺構 <4> 跡地での暮らし

並ぶ板小屋 厳しい貧困

復興経て懐かしさも

 1947年6月に太田川の東側、基町(現広島市中区)で撮影された1枚の写真。原爆で壊滅した旧陸軍輸送部隊「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊(輜重隊)」跡地に、板張りの小屋が並んでいる。戦災者の越冬のため、45年から公設の簡易住宅の整備が進められていた。

 「行き場のない人たちの集まりだった」。被爆作家の原民喜を顕彰する「広島花幻忌の会」事務局長、長津功三良さん(86)=岩国市=は48~53年ごろ、新聞販売店を営む父を手伝いながらここ基町に暮らした。

水道20軒に一つ

 市は46年、一度は一帯を公園用地と決定。しかし住宅不足への応急策として、住宅営団や市、県が順次、越冬住宅に加えて住宅を整備し約1800戸が並んだ。河岸には不法建築物も立ち、後に「原爆スラム」などと呼ばれた。

 長津さん父子が輜重隊跡地に住んだのは最初に建った越冬住宅の平屋。4畳半と6畳の2間に土間、外に簡易な便所。屋根はあっても天井はなく、壁には節穴が開いていた。共用水道も20軒に1カ所だった。畑からは輜重隊の名残か、馬の骨が出てきたという。

 詩人の峠三吉は作品「ある婦人へ」の中で「輜重隊あとのバラック街」に暮らす被爆女性を描いた。「新聞販売店の集金係の女性はまさにそんな人だった」と長津さん。戦地で夫を、原爆で息子を失った。左手の指はやけどで癒着し、真夏でも腕のケロイドを長袖で隠していた。配達員の多くは、父親を亡くし母子寮に住む子どもだった。

 長津さんは高校卒業後、就職で広島を離れた。基町はその後、高層アパートの建築が69年から本格化。約10年がかりの事業で老朽住宅は取り払われ、中央公園や護岸として整備された。94年に広島に戻ると、街は様変わりしていた。

 詩人でもある長津さんはその頃から「被爆していない後ろめたさ」を振り切り、基町での日々を書き留めるようになる。集金係の女性も繰り返しモチーフとして現れた。「誰かが残さなくては」。その思いは、実家である岩国市に暮らす今も抱き続けている。

差別 追い打ちに

 「朝鮮半島出身者も、知られているよりずっと多かったのでは」。韓国原爆被害者対策特別委員会の副委員長を務める権俊五(クォン・ジュノ)さん(72)も、60年まで基町に暮らした。「家族や親戚を頼り、1軒に2、3世帯住むのも珍しくなかった」と回想する。

 まだ子どもだったが、周囲の苦しい暮らしぶりを見聞きした。「朝鮮人への差別も厳しく、被爆だけでなく出身も隠さないと仕事がなかった」。行き場を失い酒に溺れる人もいた。「戦争が終わってなお、生活という厳しい戦いがあった」

 貧しさと裏腹のわい雑な活気を懐かしむ人もいる。「そう思えたのは40歳ごろからですが」。南郷誠六さん(72)=西区=は記憶を頼りに、地区を南北に貫いた「基町本通り」の地図を描いてみせた。映画のロケがあった氷菓店、上皇と上皇后両陛下のご成婚パレード中継を見た食堂…。描き込んだ40以上の店舗には不法建築も多かったという。

 道端でお金を脅し取られるなど、街にはきれい事では済まない日常もあった。家業の餅屋が軌道に乗り、64年に引っ越した時は「もう戻りたくなかった」。

 気持ちが変化したのは20年以上たって、近くの川沿いを歩いていた時だった。「当時と同じ川の生臭さ」をふと感じた。その瞬間、被爆と復興のはざまで雑多な生の入り交じった街の記憶が、懐かしさとともによみがえった。

 「忘れたくない。今はそう感じています」。確かにあったあの街の記録を、何か残してほしいと願う。地図に朱書きした「失われた基町を求めて」とのタイトルには、そんな思いも込めた。(明知隼二)

(2021年7月16日朝刊掲載)

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