×

連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 輜重隊遺構 <5> スタジアム用地

犠牲者の歴史刻む場に

市民 記憶継承の動き

 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)の収蔵庫に、1945年8月5日消印の1枚のはがきがある。旧陸軍の輸送部隊「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊(輜重隊)」の中川保さん=当時(28)=が、妻芳子さんに宛てた。3月に3歳で病死した長女の恵子さんへの思いなどがつづってある。

 「便りが無ければ元気でゐ(い)ると想(おも)って好い。恵子が亡くなって、早五ヶ月。初盆には手落の無い様、俺も何処(どこ)かの果(はて)で手を合はせてゐ様、健在を祈る」(以下、原文ママ)

 はがきを送った翌日、中川さんは兵営周辺で被爆したとみられ、収容先で4日後に死去した。東京で妻子3人と暮らし会社勤めをしていたが、45年3月に応召。本籍地の鳥取の部隊を経て広島に配属された。

 はがきは被爆死の1カ月後、鳥取に疎開していた芳子さんと当時1歳だった長男忍さん(76)=東京都品川区=の元に届いた。「父の記憶がない私にとって、直前の思いが分かる奇跡のような遺品です。父の生きた証しとして残すことが供養になればと」。忍さんは2014年に死去した母からはがきを受け継ぎ、18年に祈念館に寄贈した。

碑や説明板なく

 忍さんは建築家として営んでいた設計事務所を16年にたたみ、時間に余裕ができたことで父の足跡を調べ始めた。「子の親と成り初めて親の有り難さ、子の可愛(かわい)さを心から味わった」「最(も)う一度忍が見られるかと想ってゐたが、其(そ)れも成らず」…。生前に芳子さんに送った手紙を読むと、子ども思いの人となりが伝わり胸を締め付けた。

 父の姿を追って広島市を訪れ、母が遺骨箱を受け取った寺院を見つけた。しかし「空白」は残る。輜重隊で何をしていて、どこで被爆したのかは今もはっきりしない。跡地の中央公園広場(中区)を歩いても輜重隊の原爆犠牲者の慰霊碑や被爆前後の詳しい状況を伝える説明板はなかった。

 それだけに、部隊の遺構に東京から強い関心を寄せている。「新型コロナが収束すれば、すぐにでも見に行きたい」。市が遺構を一部切り取って公園内での保存を検討する考えを示す中、サッカースタジアムとどう両立させるか建築家の視点でも注目する。「中央公園の地面には犠牲者の魂が詰まっている。訪れる人が悲惨な歴史に向き合う場になってほしい」

 市民の間には、すでに記憶の継承に遺構を生かす動きが出ている。原爆資料館のピースボランティアたち8人は15日、発掘現場のそばで輜重隊について学ぶフィールドワークをした。企画した多賀俊介さん(71)=西区=がガイドをした。

一部の保存願う

 多賀さんは、戦闘部隊の後方で軍需品輸送にあたる輜重兵の部隊が陸軍の中で低く見られていた点も解説した。かつて「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々(ちょうちょ)トンボも鳥のうち」とやゆするざれ歌もあった。「馬の方が大事だと言われ、殴られた」などと部隊での不条理を伝える元輜重兵の手記や証言も残っている。

 一方で戦争遂行のため広島県内外から多くの庶民が召集で配属され、原爆の犠牲になった。「軍都の全体像、戦争の悲惨な現実を伝えるため遺構を一部でも残すべきだ」と話す。

 サッカースタジアムの建設を前に見つかった輜重隊の被爆遺構。街の姿が変わっても、この地で起きたことを「空白」にさせてはならないと、今を生きる私たちに無言で語る。

 取材で、犠牲者の半生や遺品を後世に残そうとする遺族に出会った。高齢の元隊員の証言や埋もれた手記にも触れた。被爆実態や軍都、復興の歴史の空白を埋める「証し」を残すことはまだできる。(水川恭輔、明知隼二)

(2021年7月18日朝刊掲載)

年別アーカイブ