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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <17> 平和運動の黎明②

■報道部 福島義文

 広島が原爆を体験してからの10年間。惨禍の記憶も生々しいこの時期は、その3分の2が占領下だった。抑圧と巧妙な規制の占領政策のもとで、平和運動は労働団体などを中心に巻き上がって来る。黎明(れいめい)期と言うにはほど遠い苦闘の時代。「祈り」「願い」の枠を超えて、早くも「反原爆」の声が発せられた歴史があったことを、ヒロシマは忘れてはなるまい。原水禁運動の前史である。

 一方、科学が作り出した原水爆に人類の未来を憂え、「核と戦争」を問い続ける科学者の闘いも、戦後間もない時期から途切れず続く。

 戦争と、誤用された科学への悔恨、悔悟…。初期の運動には、抑え切れない原爆への憎悪や人間の良心が色濃く投影されている。

「核と戦争」問う科学者 第1回パグウォッシュ会議参加の小川岩雄さん

 叔父の形見にもらった青表紙の本は、終生、座右の書になる。

 旧制一高に入学した1人の学生が、進路の相談で叔父を訪ねた。中間子理論で脚光を浴びる気鋭の物理学者の叔父は、原子核の研究施設を案内後、1冊の本を貸してくれた。「物理学の進化」。アインシュタインの共著だった。帰途、この啓蒙(けいもう)書に読みふけり、物理の道に進む心は固まった。

 立教大名誉教授の小川岩雄さん(73)=東京都練馬区東大泉=と母方の叔父でノーベル賞受賞者の故湯川秀樹博士。1冊の名著は、世界の権威アルバート・アインシュタインと2人の物理学者を結ぶ小さな糸だった。やがて3本の糸は、科学者の平和運動へ向け、太くより合わされていくことになる。

 パグウォッシュ村はカナダ東海岸の寒村だった。地図にもないような小さな村で開かれた国際科学者会議に、小川さんが参加したのは1957年7月初旬。東西の科学者が核兵器と戦争の廃絶を討議する初めての場に、日本から湯川、小川さんと朝永振一郎氏の3人が海を渡った。

 相次ぐ米ソの水爆実験に放射能汚染は深刻さを増し、科学者の危機意識も切迫した時代だった。「国内データを集めて会議に同行を」。放射性降下物の測定や影響調査に携わっていた立教大助教授の小川さんを、湯川博士らが誘った。

 会場の別荘で深夜まで続く議論。日本の汚染データを持って、小川さんも輪に加わる。死の灰の誇張や過小評価を避けながら、冷静かつ白熱した四日間の討議。地名に由来して「パグウォッシュ会議」と呼ばれる会議は、その声明で放射能障害を指摘し、核実験の中止や戦争そのものをなくす努力を世界各国に訴えた。

 「『鉄のカーテン』と言われ途絶状態だった東西の壁に風穴を開け、科学者が自由に対話した歴史的な意味は大きい」。小川さんはあの熱気を思い起こす。

 討議の会場に、平和の道を探る英哲学者バートランド・ラッセルからテープが届いた。「この会議は国代表の集まりではない。あくまで個人の良心による参加である」。世界10カ国24人。小規模だが、恐怖の増幅する核時代に、国を超えて科学者がその責任を探る会議であった。

 パグウォッシュ会議は、その2年前に出された「ラッセル・アインシュタイン宣言」が呼びかけた会議である。宣言は、核戦争による人類の滅亡を警告、核兵器の禁止と戦争の回避を訴えた。ノーベル賞受賞の世界の科学者ら11人が署名、日本では湯川博士が1人サインした。

 英国で記者会見したラッセルは「核戦争に勝者なし。われわれは生存を脅かされている『人類の一員』として発言する」と読み上げた。ラッセルは、宣言の相談で出向いた米国からの帰途、飛行機の中でアインシュタインの死を知る。「宣言はアインシュタイン最後のメッセージでもあった」と小川さんは思う。

 「そのアインシュタイン先生との出会いが、秀樹さんの平和運動の契機でした」。湯川博士の妻スミさん(85)=京都市左京区下鴨泉川町=の言葉を、小川さんは何度も聞いてきた。

 戦後3年たった48年、湯川博士は米プリンストン高等科学研究所の教授に日本人として初めて招かれる。世界から集まる科学者。ユダヤ人ゆえナチス・ドイツに迫害され、米に亡命したアインシュタインもいた。ある日、湯川夫妻を部屋に招いた白髪の科学者は、顔を見るなり2人の手を握って言った。「自分がナチスの原爆開発を恐れ、米大統領に原爆開発を進言したばかりに、憎いヒトラーでなく罪のない日本人を殺傷してしまった」。涙を流してわびる姿が、スミさんの記憶から消えない。

 研究所時代の湯川博士とアインシュタインは毎日、食事やお茶の時間に隣り合わせで語り合った。「科学者は理論が解明されると研究を深めていく。核兵器もこのままだと人類が滅びる。核をなくし、戦争をしないシステムを考えよう」。スミさんが夫から伝え聞く話の内容は、2人の平和運動の道筋を示していた。

 パグウォッシュ会議に参加以来、小川さんは科学者として核兵器に反対する運動により深くかかわっていく。理由の1つは平和運動を続ける叔父への敬慕。もう1つは「広島の体験」だった。

 戦時下、東大物理学科を繰り上げ卒業した小川さんは、技術科士官として広島県安芸郡江田島町の海軍兵学校で力学科の教官になる。44年1月だ。戦局は悪化、間もなく本土空襲が激しくなる。

 あの日、アブの羽音に似たB29爆撃機の音を聞いた。数分後、青紫色のせん光。反射的に経過時間を暗測した。物理を学ぶ者の習性だった。約30秒後、強い爆風。振り向くと不気味なきのこ雲がむくむくと立ち昇っていた。

 爆弾の威力の大きさ。大学で核分裂反応の可能性は学んだものの、現実に原爆開発が進んでいたとは知るよしもない。だが8日ごろ、広島市内へ独自の現地調査に出かけた同僚教官十数人が「保管レントゲンフィルムが黒くなった」と聞き込んで帰る。核爆弾説は決定的。衝撃の結論だった。

 「自分の志した学問の応用が有史以来の惨禍と敗戦を招いた」。複雑かつ強烈なショックだった。爆心から約16キロの島で見たきのこ雲が「科学者の立場で核問題にかかわる原点になった」と打ち明ける。

 戦後、東大で専任講師や助教授として勤めたころ、千葉県内の中高校から請われて原爆の講演に走り回った。まだ占領下。政党色など全くなかったが「反米分子」と疑われ、占領軍の命を受けた県庁の特別審査局につきまとわれた。

 大学紛争時の72年、教育改革で立教大の一般教養課程に「核問題概論」講座を開設する。「核廃絶の世論喚起のため学生に語り伝えたい」と定年まで講義を続けた。広島・長崎の被害、放射能の影響、軍縮の実態…。核の全体像を示し続けた16年間だった。講座は今も後輩が引き継いでいる。

 カナダの寒村で始まったパグウォッシュ会議は、これまでに世界各地で44回の年次会議を開いてきた。東西対立の緩和や核状況への警告、改善など、具体的な提言を各国政府に送ってきた。部分的核実験停止条約(63年)や核拡散防止条約(70年)など、提言を踏まえた各国交渉の末に結実した成果もある。

 ただ科学者の中には会議の変質を指摘する声もある。回を重ねるにつれ、大国政府の核開発に携わる科学者の参加も増え、「軍備管理」の技術論議に陥ったなどの見方だ。軍備管理の考え方は核兵器の存在を前提にしているだけに、真の軍縮に逆行する。「核を持ち合うことで均衡を保とうとする『核抑止論』の不毛を批判し続けたのは、パグウォッシュ運動の中でも日本の科学者だけだった」と小川さんは強調する。

 戦後50年、「ラッセル・アインシュタイン宣言」から40年。この節目の今年7月、被爆地広島で日本初のパグウォッシュ会議の年次会議が開かれる。

 「冷戦こそ終わったが、決して核の脅威に安心する時期ではない」。今の核状況を改めて問い、原点に戻って核廃絶のステップを探るのが広島会議である。

 核兵器の持つ力を一番分かるのは、政治家や外交官ではなく科学者だろう。14年前に74歳で亡くなった湯川博士はこう書き残した。「私は科学者であるがゆえに『原子力』対『人類』という問題をより真剣に考える責任がある」

 カナダの初会議に小川さんらが出発する日。羽田空港は仏から里帰りの女優岸恵子を迎えるマスコミであふれた。その陰で科学者はひっそりと旅立った。

 一見、平和そうに見える現代。会議を呼びかけた「ラッセル・アインシュタイン宣言」は「古い格言」と受け取られるかもしれない。小川さんには、そんな危惧(ぐ)もある。だが「冷戦下に発せられた『宣言』は、古くて新しい響きで生き続ける」。そう確信して、パグウォッシュ会議の開かれる広島の地を踏む。

<参考文献> 「広島新史」(広島市)▽「ヒロシマから 原水禁運動を生きて」(松江澄)▽「日本ペンクラブ五十年史」(日本ペンクラブ)▽月刊「キング」(講談社)▽「原子と原子核」(小川岩雄)▽「核時代を超える」(湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一)▽「アインシュタインの生涯」(カール・ゼーリッヒ)▽「苦楽の園」(湯川スミ)など

(1995年5月14日朝刊掲載)

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