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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <18> ビキニ被災

■報道部 西本雅実

 日本の戦後平和運動の礎をつくり、リードしてきた原水爆禁止運動。それは1954年、米国がビキニ環礁で行った水爆実験によるマグロ漁船「第五福竜丸」の被災をきっかけに、草の根の国民大衆運動として起こった。

 東京・杉並の主婦や魚商が呼び掛けた水爆禁止署名運動は燎(りょう)原の火のように広がり、占領下ではタブー視されていた広島・長崎の原爆被害に国民的な関心を引き起こす。米ソの核開発競争に対し、被爆者救援を据え「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニを繰り返すな」という日本の平和運動が形づくられて行く。

 ビキニ事件に始まる初期の原水禁運動を通し、被爆(曝=ばく)体験はどのように「国民的な体験・記憶」となったのか。あらためてそれを見る。政党系列化で硬直した今の運動と違い、戦後ののびやかな息吹とエネルギーがあふれていた。

消えぬ「死の灰」の恐怖 第五福竜丸の元乗組員大石又七さん

 大石又七さん(61)は今、東京都大田区の東邦大病院で、超音波診断の定期検査を2週間ごとに受ける。一昨年末に腫瘍(しゅよう)を摘出した、肝臓の状態を調べるためである。

 「仲間と同じ病気ですよ。覚悟していたとは言え、再発の可能性は人より50%高いと言われたし、今度なったら危ないよなぁ…」。死のふちから再度生還したものの、「死の灰」の恐怖が追いかける。あの日、ビキニにいた。

 23人の男たちが乗り込んだマグロ船第五福竜丸は、1954年1月22日、静岡県焼津港から出港した。木造140トンの船体をきしませながら、太平洋上で漁を続ける。そして14回目の操業中に、光の玉に出合った。

 「突然に何もかもが黄色の世界。光はバーッと流れ、しだいに赤色へと変わって行った」。その瞬間、舳(へ)先側船室にいた。

 1954年3月1日午前3時50分ごろ。「漁労日誌」によると「北緯11度53分、東経166度34分」。第五福竜丸は、中部太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁の東方160キロ付近を航海していた。

 光に続き、その7、8分後、今度は船体を持ち上げるような音がとどろく。それでも、男たちは揚げ縄作業を始めた。西の空に浮き出た黒ずんだ巨大な雲が空を覆うように広がった。

 やがて、粉雪のような白い灰が降る。違うのは、手で払ってもすぐには落ちないこと。「手に持つとジャリジャリ音をたて、目や鼻に入るとチクチク痛かった」。午前11時前、揚げ縄作業は終わった。

 「久保山さん(無線長の久保山愛吉氏)が、焼津へ戻る途中に原爆の記事を取り出して来て、『ピカドンかもしれんぞ』と言ったが、みんな広島・長崎のことはほとんど知らなかった」

 甲板にうっすらと積もった灰が、水爆実験による放射性降下物である「死の灰」とだれも思わなかった。まして、その恐怖が終生つきまとうことになるとも…。

 米国が「ブラボー爆弾」と名付けビキニ環礁の地上15メートルで爆発させた水爆は、それまでで最大規模のものであった。広島型原爆の1000倍に匹敵する威力を持ち、その放射能は1万7000平方キロに及んだ。

 13日後に帰港した第五福竜丸がビキニで被曝していたのが分かると、日本国内は大騒ぎになる。「原爆マグロ」の言葉が飛び交い、降雨からも人工放射性物質が検出された。

 その衝撃は9月、国立東京第一病院に入院していた久保山愛吉さん=当時(40)=の死去で頂点に達する。年末までに856隻の被災が確認され、マグロ486トンが廃棄となる。

 国民の間から原水爆禁止の声が噴き出した。にもかかわらず、日本政府は占領期の名残を引きずった。

 対米交渉の陣頭に立った吉田内閣の岡崎勝男外相からして、「原爆実験を中止するよう要求するつもりはない。自由諸国の安全保障にとり必要」(4月9日・日米協会での演説)と述べる始末であった。

 日米両政府は、公海上での水爆被災という法的責任も棚上げにし翌年1月、「慰謝料」200万ドル(7億2000万円)の支払いでビキニ事件を「決着」とした。

 そこには、ソ連と冷たい戦争にあった米国の意向が優先していた。91年ようやく公開されたビキニ事件をめぐる外交文書が、乗組員の生命よりも水爆の機密保持に神経をとがらせていた米国の姿勢を伝える。

 「水爆の情報や死の灰は(略)非友好的な国へ渡る恐れがある」「外部への発表を審査し検閲するようされたい」と求めていた。

 ヒロシマ・ナガサキに続く核被害は、日米両政府による漁業者への慰謝料問題にすり替えられた。久保山さんの死におののき、1年2カ月の入院生活を強いられた22人の男たちは各200万円を受け取った。

 大石さんは14歳からの漁師生活をあきらめ、都内でクリーニング店の見習いに入った。「正直言って、都会の人ごみに身を隠したい。そう思い上京した」。はた目には健康を取り戻したように見えた。なのに金を手にしたことで、やっかみにさらされたのである。

 大田区内の住宅街で店を構え、25歳で結婚。忘れようと努めた「死の灰」の光景が、最初の子どもの死産でよみがえった。それを振り切ろうと、またアイロン台に向かった。原水爆禁止運動も、あえて関心を払わなかった。

 一男一女にめぐまれ、休日の海釣りを楽しむ。そんな日々が流れていたところへ、第五福竜丸が再び世間の耳目を集めた。67年、ゴミ捨て場であった夢の島で、廃船になっているのが見つかった。

 ビキニ事件直後の日米交渉で、政府が「文部省の学術研究費で買い上げる」と答えた第五福竜丸も、母港から追われた。東京水産大の練習船になった後は、解体業者がエンジンを転売し放置していた。

 保存運動が実り、都立・第五福竜丸展示館は76年に開館した。「この船が、私が隠れたつもりの東京で見つかり、保存された。そのころから仲間が1人、2人と死ぬ。それで意識も次第に変わって来た。核の怖さ、痛みを隠すんじゃなしに言うべきだと」

 展示館で、大石さんは仕事の合間を見つけては証言活動に励むようになった。一昨年の手術後は、切羽詰まった気持ちに駆り立てられると言う。

 甲板長だった川島正義さんが75年、肝臓がんのため46歳で亡くなった。79年には甲板員の増田三次郎さん=当時(53)=がやはり同じ病気で…。久保山さんから数えると、これまでの死亡者は8人。交通事故死の一人を除く全員が、肝臓を患っていた。

 第五福竜丸の元乗組員は毎年、科学技術庁放射線医学総合研究所(千葉市)で「健康診断」を受けている。大石さんには、その健康診断が被曝との因果関係を突き止めようとしないように思えて仕方がない。

 「政治的な問題になるから、詳しく調べないんじゃないか」。ビキニ事件の真相究明を阻んだ日米両政府の機密保持が頭をよぎり、疑心を募らす。また仲間から「事件のことは忘れよう」と言われるのも、どこか歯がゆさを覚える。

 分裂した原水禁団体の勢力争いにも巻き込まれた。周囲の雑音にわずらわされず静かに暮らしたいと、口を閉ざす仲間の気持ちは痛いほど分かる。

 が、その一方の思いもうずく。「運よく生き伸びたわれわれが言わなかったら、だれが亡くなった仲間の思いを伝えるのか。元気でも放射能を浴びたら、その恐怖を死ぬまで背負い込むんだ」

 大石さんはこの春、展示館で、マーシャル諸島から訪れた住民代表に初めて出会い、あらためてその思いを強くした。

 ビキニ水爆実験で風下にあったロンゲラップ島の住民は移住を余儀なくされ、先祖伝来の島への帰還はいまだにかなわない。

水爆大怪獣「ゴジラ」 事件ヒントに誕生

 「水爆大怪獣空想映画」と銘打ち、ビキニ事件から8カ月後に封切られたのが、「ゴジラ」。製作・公開の東宝によると、961万人が見た。後の怪獣映画ブームの先駆けとなり、現在も続くゴジラ映画は、第五福竜丸のビキニ被災をヒントに誕生した。

 物語はいたって単純明快だ。水爆実験によって海底から目覚めたゴジラが東京を襲う。その「水爆大怪獣」を、若き科学者が発明した酸素破壊剤で自らの身をていして葬るという筋立て。1時間37分の映画は今、ビデオで見ることができる。

 再見すると、白黒の暗い画像と相まって社会派ドキュメンタリーの趣が濃い。ゴジラ上陸を告げるサイレン、夜空を不気味に染める東京炎上、病院で横たわる負傷者の群れ…。東京大空襲は、公開当時ほんの9年前のことだった。

 同時に「原子マグロだ、放射能雨だ、それに今度はゴジラ」のせりふ、負傷者検診にも登場する放射能検出のガイガーカウンター、女学生による平和の祈りの合唱シーン。ビキニ事件やヒロシマ・ナガサキも明らかに連想させる。

 発案は、この4月まで東宝映画会長だった田中友幸さん(85)で、当時計画していたインドネシアとの合作映画がつぶれ、ビキニ事件から「ゴジラ」製作を思い立った。体調が思わしくない田中さんに代わり、富山省吾チーフプロデューサー(43)は「変わるべきは人間による核兵器が生んだゴジラではなく人間。それが田中さんの、怪獣アクション映画でもあるシリーズのメッセージ」と言う。

 また、第1作のメガホンをとった亡き本多猪四郎監督は、中国から復員途中に見た広島の惨状を生前のインタビューで何度も語っている。その本多監督が脚本も手掛けた「ゴジラ」のラストシーンで、志村喬がふんする「山根博士」がつぶやくせりふはこうだ。

 「水爆実験が続けて行われると仮定したら…あのゴジラの同類がまた世界のどこかへ…現れて来るかも知れない」

 ゴジラ映画は今年の冬公開予定作品で22作目となる。

<参考文献>「ビキニ水爆被災資料集」(第五福竜丸平和協会)▽「第五福竜丸保存運動史」(広田重道)▽「死の灰を背負って」(大石又七)▽「歴史の大河は流れ続ける(1)(4)」(杉並区立公民館を存続させる会」▽「道 安井郁 生の軌跡」(「道」刊行委員会)▽「まどうてくれ 藤居平一聞書」(宇吹暁)▽「初期原水爆禁止運動の成立」(藤原修)▽「ゴジラ」(東宝ビデオ)

(1995年5月21日朝刊掲載)

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