×

検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <20> 労働組合

■編集委員 小野増平

 原水禁運動、被爆者運動の足跡をたどる時、舞台裏を支えた宗教団体と労働組合の存在に気づく。宗教団体で異彩を放つのは、うちわ太鼓と黄色い僧衣姿で黙々と行動する日本山妙法寺。徹底した非暴力直接行動で、仏教界の平和活動に新しい地平を切り開いた。被爆直後から被災者の救援に尽力した、一貫して核兵器廃絶を訴え続けてきたクエーカーやローマカトリックを中心とするキリスト教の貢献も忘れることはできない。一方、労働組合では、組合活動がそのまま被爆者救援活動でもあった全日自労広島支部が目を引く。そこには戦後の半生を失対労働者と共に生きた1人の指導者がいる。また企業内組合に職域被爆者団体を結成し、平和、被爆者救援を組合運動の主要な柱とした広島の主要労組の役割も大きい。それぞれを代表する「群像」を見る。

底辺の被爆者と歩む 全日自労広島の吉田治平さん

 日本の経済的繁栄の底辺を支えてきた社会的に最も弱い人々。その人々が、生活を守るために手を携えた労働組合が今、1つの歴史的役割を終えようとしている。

 ほぼ30年前のピーク時には7600人もの組合員を抱え、その半数以上が被爆者だった全日自労建設一般労働組合広島支部である。広島市の失業対策事業に登録したいわゆる「失対労働者」が、自分たちの生活と権利を守るために組織した。

 道路の清掃、公園の草取りなどの軽作業を中心とした失対事業は、「原爆ブラブラ病」と呼ばれ、体の不調を抱える被爆者にとってありがたい制度だった。とりわけフルタイムの勤務が難しい高齢、婦人被爆者には救いの綱とも言えた。

 吉田治平さん(広島市南区)、72歳。この全日自労広島支部の組合3役を1950年から45年間にわたって務めた。今も現役の委員長である。

 「被爆者のために運動したという意識はまったくない。組合として『生かせろ、食わせろ、働かせろ』と要求し続けたことが結果的に被爆者を最底辺で支えることになった」。吉田さんは広島市西区三滝にあるプレハブの広島支部で、組合活動がそのまま被爆者、戦争犠牲者救援運動に直結していた全日自労の45年間を振り返る。

 中央大学を繰り上げ卒業し学徒出陣、九州で8月6日の広島原爆被災の報を聞いた。13日、神奈川の兵器廠(しょう)に兵器受領に行くよう命じられ2日後、広島に着いた。

 目の届く限りの焼け野原。記憶にあった緑の古里は黒々とした死の街に変わっていた。上幟町の自宅の焼け跡を掘ると、太い骨が一かたまり、小さい骨が2かたまり出てきた。母と12歳になる双子の2人の妹の骨…。その骨片を入れた小さなかばんを腰に着けたまま、ラジオから流れる聞き取りにくい終戦の「詔勅」に耳を傾けた。「遅すぎる…」。むなしい思いだけが募った。

 それから11日後の26日、けがをしたもう一人の妹が、親類の家で苦しみながら息を引き取った。早くに夫を亡くし、女腕一つで10人もの兄弟姉妹を育て上げた母。年端も行かない3人の妹たち。その不条理な死を前に、吉田さんは「おのずから自分の行くべき道が定まる感じがした」と言う。

 決意は吉田さんのその後の人生に色濃く投影されている。被災の記憶もまだ生々しい45年9月、100人を超す社員が原爆の犠牲となった中国新聞社に入社した。翌年6月、新しくできた「夕刊ひろしま」に出向、デスクとして活躍するかたわら労働組合を結成し、書記長に就任した。

 「腹は減っていたが、解放感だけは満腹の時代。2度と戦争を起こしてはならないと思い定める一方、生活擁護が組合の大きな目的だった」。新聞社近くの焼け跡に再建された喫茶店で、仲間が集まっては若々しい夢を語った。

 48年11月には当時の県内労働組合の統一組織、広島県労働組合協議会の事務局長に推された。しかし、2年後、時代は再び大きく暗転する。朝鮮戦争勃(ぼっ)発に伴う連合国軍総司令部(GHQ)のレッドパージ指令である。

 吉田さんも20人の仲間とともに新聞社を追われた。地労委に解雇無効を訴える。4年後、無効決定を勝ち取ったが、そのときは「夕刊ひろしま」は廃刊。「名は取ったが、実は負けたというやつでしたな」

 新聞社を解雇された年の8月、自分でも3カ月続かないだろうと思いながら広島市の失業対策事業に登録した。地労委で解雇無効を争っている以上、他の企業に職を求めるわけに行かなかった。

 足を踏み入れた失対事業の世界は聞きしにまさる無法地帯。腕力の強い者が楽な仕事を取り、2人、3人分の賃金を取る。横行するボス支配。公平を期すべきお役所は無力だった。

 「見るにみかねた。年寄りからは面倒をみてくれとすがられるし、人情負けしてしまった」。この年、12月、解散状態にあった広島自由労働者組合の再建大会を開き、書記長になった。53年、全国組織の全日自労が結成されると同時に初代書記長就任を請われた。以来、縁が切れなくなった。

 組合活動は「正月にもちぐらい食べたい」「失対の1日紹介をせめて3日に」といったささやかな要求が多かった。いずれもぎりぎりの暮らしの中で、最低限の人間らしい生活をという切実な願いがあふれていた。

 元広島原爆養護ホーム所長の志水清さん(故人)はその著書『原爆孤老』にこう書いた。「(被爆自由労働者は)被爆によって一切の財産を失い、唯一残った財産である労働力を使い、生きるために日雇い労働に従事してきた。しかし、被爆によって肉体的被害を受けているため、その労働力さえも十分なものでなく、なかには医師の注意も聞かないで、病身をおしその日の糧を得るため、身を削りながら働いてきた人も多い…」

 長女を原爆で失った加島チカさん(同)は、全日自労広島支部が77年に発刊した「わしらの被爆体験 100人の証言」で、次のように証言した。「こうして私には血のつながった者が広島にはおらなくなりました。私はお寺まいりだけが生きがいです。1人ですから、死ぬるまで働くほかはありません」

 チカさんは当時、85歳。そんな高齢でも生きていくために働き続けなければならない現実。吉田さんは組合を去るに去れなかった。

 しかし、失業対策事業は「高齢化」「非能率」「自治体への財政圧迫」を理由に、池田内閣時代に早くも打ち切り構想が示される。背景に所得倍増を柱とする高度経済成長計画と、効率第一という時代の要請があった。

 広島市は70年には「就職支度金」として10万円の一時金支給、翌年には「期限内に失対をやめれば35万円を支給」などの条件を提示し、約900人がやめた。その後も勧奨退職、定年制導入と失対事業縮小の道は続いた。

 「広島市の失対事業は、いつの時代も半分以上が被爆者対策だった。それを分かってくれとずいぶん言ったもんだが…」。吉田さんは苦しかった時代を振り返る。だが、抵抗もむなしく市は1昨年末、国の方針に従い最終的に失業対策事業を打ち切った。国も来年3月いっぱいで事業を終息させ、失対47年の歴史に幕を引く。

 こうした中、全日自労広島支部の組合員は、今では最盛期の30分の1にも足りない250人にまで激減、失対打ち切りに伴う5年間の経過措置の任意就業事業で働く人らが細々と組合の灯を守る。

 被爆者、戦争引き揚げ者、高齢者、婦人、病弱者…。吉田さんは半世紀をこうした人々と共に歩いた。警察に拘置され、刑に服したこともある。「社会の最底辺で働く人たちに教えられ、支えられての人生だった。長いと思ったことは一度もない。やるべきことをやっただけだ」。日焼けしたたくましい顔は年齢を感じさせない。

 脳裏には、拘置中に警察署の外で「吉田を返せ」「吉田を返せ」と叫んだ年寄りたちの声が今でも響き、1円玉を積み立てて保釈金に充ててくれた1人ひとりの失対労働者たちの顔が焼きついている。

労組の職域 被爆者団体 原水禁運動を日常化

 原水禁、被爆者救援運動を「イベント動員型」でなく、日常的な労働組合活動の1つとしたのは、組合内に結成された職域被爆者団体の力が大きい。最初に職域被爆者団体をつくったのはかつての国鉄労働組合(国労)である。

 被爆から20後の1965年7月、岡山市で開かれた国労全国大会で中田哲夫広島地本委員長が、被爆国鉄労働者の救援活動を特別決議として提案、満場一致で採択された。

 決議を起案した当時の広島地本執行委員、瀬戸高行さん(69)=現広島県被団協(社会党系)副理事長=は「あのころ被爆の後障害で仕事に出られない職員が何人かいた。これは見過ごしにできないと思って組合に『原爆被爆者対策部』の設置を提案した」と振り返る。

 この決議を受け国労は翌年6月18日に「国労原爆被爆者対策協議会」(国労被対協)を発足させ、事務局を広島地本内に置く。国鉄当局の調べでは、そのころ被爆職員は全国で2000人を超えていた。

 国労被対協には政党党派を超えて被爆国鉄労働者が結集した。そのころ、地本で少数派だった共産党系の末宗明登さん(68)=同広島県被団協(共産党系)事務局長=も社会党系の瀬戸さんらと共闘した。

 続いて全国電気通信労働組合(全電通)が68年10月に「全電通広島被爆者連絡協議会」(全電通被爆協)を結成した。事務局長には前々から積極的に被爆者問題に携わっていた近藤幸四郎さん(62)=同広島県被団協(社会党系)事務局次長=が就任する。

 全電通被爆協は被爆職員の労働条件改善や被爆体験記『原子雲の下に生き続けて』の発刊などに精力的に取り組んだ。

 その後、国労被対協、全電通被爆協が呼びかけ、2つに分裂していた広島県被団協や広島県教職員組合など7団体(後に13団体)が結集し、72年に「被爆二世問題連絡会」を結成した。

 連絡会は両被団協が分裂後、初めて同じテーブルについたほか、各組合の職域被爆者団体が企業のわくから出て共同行動に立ち上がった点に意味があった。会は翌73年7月20日のフランスへの核実験抗議座り込みを経て、「広島被爆者団体連絡会議」(被団連)へと発展する。

 被団連の事務局長には全電通被爆協の近藤事務局長が推された。全電通の専従役員でありながら社会党に入らず、無党派で被爆者、原水禁運動一筋に活動してきたのが組織を超えてのパイプ役に最適とみなされたためである。

 しかし、その近藤さんは「無党派」が響いてか76年、全電通の専従役員を解かれる。「党員だと組合より政党の都合をどうしても優先させる。それがいやで党員にならなかったのだが、結局はこちらが追い出された」と笑う。

   ◇  ◇  ◇

 総評解体、労働界全体の再編に伴い、労働組合の被爆者、原水禁運動も大きな曲がり角を迎えている。

 組合専従役員をやめると、議員になるか組合関係の団体の管理職に再就職するというこれまでの多くの組合の体質や、政党との関係も真に問われ始めている。

<参考文献>「わが非暴力 藤井日達自伝」(山折哲雄編)▽「破壊の日 外人神父たちの被爆体験」(カトリック正義と平和広島協議会)▽「わしらの被爆体験 100人の証言」(全日自労被爆者の会編)▽「この怒りを忘れまじ」(国労被対協)

(1995年6月4日朝刊掲載)

 

年別アーカイブ