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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <22> 市長・自治体②

■報道部 西本雅実

 戦後の広島の市長は被爆都市としての使命と責務を担う。歴代で6人を数えた。

 わけても原爆が人類絶滅の兵器と訴え、復興の礎を築いた初代公選市長の浜井信三さんは、ヒロシマの骨格をつくった。平和式典、平和記念公園の建設、原爆ドーム保存…。「今われわれが為(な)すべきことは全身全霊をあげて平和への道を邁(まい)進し…」。今も脈々と流れる浜井さんの遺志と、平和宣言に表れた彼に続く市長たちの平和への訴えをみる。併せて長崎からみた広島を本島等・前市長に聞いた。

 折々の時代の中で揺れ、批判を受けながらも貫く市長・自治体の平和への営みは、ヒロシマ市民の歩みでもある。

核被害者救援に責務 ナガサキからみたヒロシマ・本島等さん

 「広島、長崎の市長は原爆、平和は避けて通れんもんね」。長崎市へ5月末尋ねた本島等さん(73)はひとなつこい笑顔と口調が印象的だった。4月まで16年にわたり市長にあった本島さんからみたもうひとつの被爆都市とは・。

 ・広島の訴え、行動をどのようにとらえていますか。
 長崎はおとなしかったもんね。街が壊滅した広島と比べ、破壊の範囲が小さかったこともある。それに被爆者は、ぼくもそうだが隠れキリシタンの子孫が多い。原爆を「摂理」と受け止め声を大きく上げなかった。その間、原爆二法の制定にしろ自治体、被爆者団体、大学、マスコミと広島が引っ張ってきた。訴えでは兄貴分なわけさ。

 ・その兄貴分と付き合ってみての感想は。
 こちらは必ず「ヒロシマ、ナガサキ」となるわけだし、またそう訴え続けたが、広島は長崎のことをあまり言わないでしょ。例えば長崎の被爆地は南北12キロ、東西6キロのいびつな楕円形。国へ是正要望しようと8者協(広島、長崎両県市と議会で構成)に出すと「ノー」と言われたわけさ。広島がこの夏米国の新聞に意見広告を出すというのも市長時代の報道で知った。それではいかんわけですよ。

 ・退任直前の3月、広島市長と行った日本海外特派員協会での講演で、「原爆使用はユダヤ人大虐殺と並ぶ20世紀最大の罪」と述べ、波紋を呼びましたね。
 トルーマン米大統領がヒトラーと同罪だとは言わないが、原爆は人類の生存を脅かす悪魔の兵器。だからその使用を2大犯罪と言ったわけさ。それで自分の考えをきちっと述べた。天皇の戦争責任発言もそうさ。ただ、ぼくの場合はどうしてか物議をかもすんだ。

 ・あの発言で本島さんが撃たれた後も、広島では「公人はあからさまに自分の考えを述べるべきでない」との声がありました。
 それこそ形式的な議論なわけさ。日本の戦争責任ははっきりしているんじゃないの。なぜ、原爆が投下された時に喜んだ人たちが世界にいたのか。そこをとらえ、考えないと。韓国併合、日中戦争…。侵略の歴史と謝罪を平和宣言にも盛り込んだのも、原爆に至る根を考えたからさ。

 ・広島はそうした視点が欠けていたと?
 ウーン…。原爆ドームから始まるのではなく、戦争の中で原爆を見つめないと、こちらの訴えはアジアに届かないし、米国との溝も埋められない。世界平和連帯都市会議の理事会でも過去、核兵器廃絶だけを言うあまり、ほかの都市とかみ合わず、文案作成がなかなかまとまらなかったことがある。

 ・長崎は、宣言で一般市民も加わった市宣言起草委員会があり、その作成過程をメディアを通し外部に公開していますね。
 ぼくは被爆者ではないし、いろいろな意見を聞くのは大切と思う。宣言に侵略と謝罪を入れた訴えはそうした議論を踏まえてだ。ただ日米安保条約と武器生産の是非は言わない。それを言った途端、議論にならなくなる。

 ・最後に、これから広島に期待されることは。
 目標は同じなんだから。手をつないでいってほしいというのが、ぼくの願いですよ。長崎と一致してこそ、その訴えの力も大きくなるし、世界の核被害者とも手を結べるわけですよ。

  長崎県・五島列島生まれ。戦争中は熊本の陸軍西部軍管区教育隊にいた。京都大を卒業後、夜間中学の教師などを経て長崎県議5期、79年市長に。88年市議会で「天皇の戦争責任はあると思う」と答え、後に右翼団体幹部に短銃で撃たれ重傷を負った。ことし4月の市長選で落選。

広島市の平和宣言の系譜 戦争の放棄・精霊・国際法違反…

 広島市の平和式典で、市長が読み上げる「平和宣言」。役人の作文という冷ややかな見方もある。が、ほぼ半世紀にわたって営々と続く宣言をたどると、その時代の原爆観、平和への決意や行動が刻み込まれている。文言には歴代市長の考え、個性もおのずとにじむ。宣言に表れた被爆都市ヒロシマの訴えの変遷をみる。

 ▽木原七郎さん(45年10月・47年3月)
 被爆1周年前日の46年8月5日、町会連盟主催で「平和復興市民大会」が木原市長も出席し開かれた。大会宣言は「破壊しつくされたる市民生活の速やかなる平和的建設」。原子砂漠といわれた廃虚が広がっていた。木原さんは内務大臣を通し勅裁された最後の市長。

 ▽浜井信三さん(47年4月・55年4月)
 広島市の平和宣言は、47年から始まった平和祭でスタートする。

 その宣言は「原子爆弾によって…広島は暗黒の死の都と化した。しかしながらこれが戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に導く要因となったことは不幸中の幸であった」とした。占領下だった。今も続く米国の投下論理とだぶる。が、それよりも生き残った者たちは、そう言い聞かせることでしか、計り知れない犠牲を意義づけるすべがなかったのではないだろうか。

 同時に、宣言は「原子力を持って争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめた」と、原爆が人類絶滅の兵器であると警告。「真実の平和確立と戦争の放棄」を内外に訴えた。平和宣言の原点、精神はここにある。

 50年6月朝鮮戦争がぼっ発し、この年は式典そのものが中止になった。平和祭は翌51年から死没者慰霊祭・平和記念式典となるが、宣言は見送られ、市長あいさつにとどまる。

 占領が明け、原爆慰霊碑が完成した52年「尊い精霊たちの前に誓う」と、以降、原爆死没者の御霊(みたま)に平和への努力を誓う宣言が定着していく。

 ▽渡辺忠雄さん(55年5月・59年5月)
 被爆10周年。宣言は「6000人の原爆障害者は、今なお、必要な医療も満足に受けることができず」と、その窮状に初めて具体的に触れた。

 54年のビキニ被災事件で「原水爆禁止」の声が広がったのを受け、宣言も遅ればせながら、58年「世論を喚起し、核兵器の製造と使用を全面的に禁止する国際協定の成立に努力を傾注」と、原水爆の全面禁止を初めて明確に掲げた。渡辺さんは元自由党代議士。

 う余曲折を経ながら、ここに来て宣言は現在の、平和への誓い、慰霊、核兵器廃絶の努力目標からなる3本柱が整ったと言える。58年ころの宣言字数は約430字と簡潔だった。

 ▽浜井信三さん(再)(59年5月・67年5月)
 60年仏、64年中国が核実験に成功し、国連常任理事5カ国すべてが核保有国となった。米ソの覇権争いもありベトナム戦争は泥沼化していく。

 返り咲いた浜井市長は被爆20周年の宣言で、原爆を「その放射能は、長期にわたって人体をむしばみ」と指摘し、「核兵器の禁止と戦争の完全放棄」を訴える。その直前には「佐藤首相に平和宣言をやってほしい」と要望していた。

 ▽山田節男さん(67年5月・75年1月)
 「世界法の支配下にあって…」(67年)。山田市長は、戦後から世界連邦の賛同者で世界連邦建設同盟副会長も務めていた。

 68年「核兵器を戦争抑止力とみることは、核競争をあおる以外のなにものでもなく」と核抑止論を真っ正面から批判し、世界のヒロシマという視点からの訴えのスタイルをつくる。70年代に入ってからは、宣言は国連とともに日本政府にも具体的な要請をするようになる。

 72年初めて国連の活動を挙げ、74年「核拡散の進行を断固阻止するために、国連において、核保有国のすべてを含む緊急国際会議」を提唱。政府が70年署名した核拡散防止条約についても「速やかなる批准」を求めた。

 「平和教育の推進」(71年)「ヒロシマの心」(72年)と今も使われるメッセージ文言も登場している。その一方で、この時期の宣言は、被爆者援護に全く言及していないのも大きな特色である。

 ▽荒木武さん(75年2月・91年2月)
 この時代から、宣言は核兵器廃絶に向け、国連での訴えとその意義を強調していく。荒木さんは爆心地から3・5キロで被爆した。

 77年、長崎市長と前年訪れた国連でワルトハイム事務総長に「両市民の胸深くうっ積した悲願をこめて…生き証人として証言」したと強調、78年は初の国連軍縮特別総会の開催意義をうたう。さらに欧州を舞台にした米ソの核軍拡競争に、82年「各国首脳が広島を訪れ、被爆の実態を確かめること」を訴え、国際的な平和と軍縮研究機関の広島設置を提唱した。荒木さんの国連訪問は5回にわたった。

 被爆40周年。「恒久平和確立への国際世論を喚起」と世界の都市連帯を訴え、「飢餓、難民、人権抑圧の諸問題も深刻」(86年)と訴えの幅を広げていく。89年東西ベルリンの壁が崩壊し、90年米ソが戦略核兵器削減に同意した。

 その年の宣言は、政府に「非核三原則の法制化」と「アジア・太平洋地域の非核化と軍縮」への積極的な外交施策を求めた。

 被爆者援護への要望も盛り込んでいる。政府の原爆二法再検討を受け翌80年「援護対策が国家補償の理念に基づいて…法制化されることを念願」と表明した。が、援護法の制定が一般戦災者との均衡論から退けられると、「法制化」の字句は消え「対策の拡充強化」(81年)にトーンダウンする。

 宣言文の字数は最盛期には約1600字となり、「ヒロシマの心」の世界化をうたう一方で、「唯一の被爆国」を繰り返した。その宣言からは、在韓被爆者たち国外の被爆者、チェルノブイリ原発事故や核実験被爆(ばく)者の存在と救援が抜け落ちていた。

 ▽平岡敬さん(91年2月・)
 現市長となった91年の宣言は「かつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人びとに、大きな苦しみと悲しみを与えた」と、初めて日本の加害に触れ謝罪した。

 また「ヒバクシャはぼう大な数になっている」と指摘し、「ヒロシマは国際的な救援を世界に訴え、その先頭に立ちたい」の決意を表した。「被爆者援護法」の表現もこの年の宣言で初めて使われた。

 この5月決議された核拡散防止条約の無期限延長には、94年「核兵器廃絶の道筋を明確にせず…私たちは反対」と表明。核兵器使用の司法判断についても政府見解と一線を画し、「原子爆弾は、明らかに国際法違反の兵器。被爆者は身をもってそのことを知っている」と、ヒロシマの立場を明確に宣言した。

 平和宣言は、核兵器がこの世にある限り続く。

<参考文献>「市政秘話」「原爆市長」(浜井信三)▽「浜井信三追想録」(同追想録編集委員会編)▽「広島市議会史」(広島市議会)▽「平和式典の歩み」(宇吹暁)▽「平和宣言集」(広島平和文化センター)▽「広島・長崎の平和宣言」(鎌田定夫)▽「ゆるす思想 ゆるさぬ思想」(本島等・山口仙二)

(1995年6月18日朝刊掲載)

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