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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <23> 核実験抗議①

■報道部 岡畠鉄也

 子供のころ「放射能の雨」に恐怖した。核実験で飛散した死の灰で日本の空も汚染されているというのだ。運悪く雨粒が体にかかると、絶望的な気分に陥り、そっと髪の毛を引っ張ってみた記憶がある。

 冷戦時代。すさまじいばかりの核軍拡競争は、人類を「滅亡2分前」にまで追い込んだ。核実験は総数で2000回を超す。し、実験場周辺には多くのヒバクシャが出現した。その被害の実態は今もって分からない。

 人類の生存を脅かす暴挙に、被爆地は怒りの声をあげ、世界の良心はさまざまな抗議行動を起こしてきた。座り込み、抗議船の派遣。ともにガンジーの非暴力主義に貫かれた抵抗だった。大気圏、水中核実験を断念させ地下に押し込めたのも、そうした世論の一定の勝利といえよう。

 冷戦構造の崩壊で核軍縮は進む。しかし、依然として4万5000発近くの核弾頭が存在し、核実験を強行する国もある。核兵器廃絶の願いを身を持って示した人々の思いは、まだ成就していない。

世界回った”闘う良心” 反核艇のレイノルズ博士

 その男は今、ロサンゼルス郊外の老人ホームでひっそりと暮らしている。時折、散歩にでかけることが唯一外部との接触という。記憶も遠くなった。壁に1枚の写真が飾ってある。南太平洋の大海原を走るヨット。デッキの上でその男は、日焼けした精悍(かん)な顔に笑みを浮かべている。

 アール・レイノルズ博士(84)。1958年、愛艇フェニックス号で中部太平洋エニウェトク環礁の水爆実験場に突入を試み逮捕されたのをきっかけに、ソ連や戦火のベトナムへも「禁じられた航海」を繰り返す。その言動は世界の平和運動に大きなインパクトを与え、人は彼を「平和の戦士」と呼んだ。

 博士は51年、放射線が児童の発育に与える影響を研究するために広島の原爆傷害調査委員会(ABCC)に赴任して来た。当時、博士に対する被爆者の評判は決して芳しいものではなかった。研究のためとはいえ裸で写真を撮られた子供の心は傷ついた。博士自身も研究が進むにつれ原爆のえたいの知れない恐怖にとりつかれる。だが核兵器への確固たる反対の気持ちがあったわけではない。ただ、昼食会で聞いた「長崎型爆弾を試さないうちにジャップどもが降参しはすまいかとひやひやだったな」という軍人の一言が心に澱(おり)のように沈んでいた。

 3年の任期を終えた博士はヨットでの世界1周に旅立つ。子供のころからの夢だった。が、博士はヨットの操船は素人。ベテランのヨットマンが直前に乗船を拒否したりしたため、一方で無謀との声が上がる中、家族4人と日本人の若者3人を乗せたフェニックス号は広島港を出帆する。

 貿易風に乗って航海を続ける。ハワイ、ジャカルタ、シドニー、ケープタウン。港々で講演をし、名も知らぬ島で現地の人々と交流する。ヨットに書かれた「HIROSHIMA」の文字。人々は広島であの日、何が起きたのかを知りたがった。答えるのは日本人クルー。博士一家は船室の隅で静かに耳を傾けた。一家にとっても初めて聞くヒロシマの生の声であり、世界の隅々にまで原爆の恐怖が染み込んでいる事実に驚いた。

 58年5月、フェニックス号はホノルルに入る。広島を出航して3年。町はゴールデン・ルール号というもう1隻のヨットのうわさで沸き立っていた。前日、米の水爆実験を阻止するため実験区域へ突入を企て、沿岸警備隊に連れ戻されていたのだ。

 「政府の法律が神のおきてと合致しないなら神に従う。私の良心まで投獄できないだろう」。法廷で語るクエーカー教徒の乗組員に、傍聴に訪れた博士とバーバラ夫人は感動した。心の中で漠然としていたものが鮮明になるのを自覚した。

 その夜、夫妻は話し合う。「広島で造られたヨットの行く手に核実験場がある。神が私たちに語りかけている」。バーバラ夫人の決意は固い。しかし、博士はなかなか踏ん切りがつかなかった。航海日誌に心境をこうつづる。「私は貧しい家に生まれ、頑張って働き、自分でもよもやと思った地位までたどりついた。今さらこれを捨てるのは…」

 子供たちや日本人船員までも危険にさらすことはできない。しかし、娘のジェシカさん=当時(14)=は「この世界は私の世界でもあるのよ。だから私にだってパパやママと同じだけ世界のために戦う権利があるんだわ」。日本人船員の故三上仁一さん=当時(34)=も「もちろん行きますよ。日本人ですからね」。博士にもう迷いはなかった。

 黒い巨大な船体がのしかかってきた。ホノルルを出航して23日目の深夜、行く手を警備の軍艦が阻んだのだ。「禁止区域に入るつもりか」。人影が叫んでいる。進めば航行禁止区域に突入するのは翌日の午後8時ごろになる。博士は叫び返した。「入ります」。軍艦は1マイル(約1・6キロ)後を追って来る。博士は船舶無線に向かって声明を発表した。「合衆国のヨット、フェニックス号は本日、核実験に対する抗議を目的として核実験区域に進入します」。58年7月1日。「平和の戦士」の誕生である。翌朝、禁止区域に85マイル入った地点で停船命令を受け、博士は逮捕された。

 ホノルルに移送された博士は、その日のうちに禁固2年、執行猶予18カ月の有罪判決を受ける。それから2年間、ヨットハーバーで寝起きし「公海自由の原則」をたてに法廷闘争を続けることになった。

 作家の故今東光氏はフェニックス号で博士と会った印象を59年10月号の文芸春秋に寄せた。「僕は日焼けした彼の顔を見、その手を握りながら、涙がほおを伝うのをどうすることもできなかった。此所(ここ)に人間のひたぶるな善意を見、此所に真正の民主主義を見出したと想(おも)った」

 博士らの体を張った抗議は世界の良心に火をつけた。フェニックス号には激励の手紙や裁判の闘争資金が連日届く。サンフランシスコ高裁で博士はついに無罪を勝ち取る。

 5年9カ月ぶりに見る広島の街並み。桟橋には大勢の市民が出迎えている。その中に、広島「折鶴の会」の子供たちと代表の河本一郎さん(66)=広島市中区=もいた。河本さんはフェニックス号の1年前、英の水爆実験を阻止するため日本原水協が計画し、その後中止になった抗議船に乗り込む予定だった。

 人影がまばらになった桟橋で子供たちは「原爆を許すまじ」を歌う。じっと耳を傾けていた博士はある決心をする。何日かたって夫妻は河本さんを訪ね、こう言った。「ヒロシマをもっと知りたい」。夫妻は「折鶴の会」の子供たちと一緒に被爆者の慰問を始めた。

 ABCC時代には無かった市民との触れ合いが平和活動家としての心を研ぎ澄ます。博士は広島に平和科学研究所開設を計画。そんな矢先の61年8月、ソ連が核実験を再開すると発表。博士は早速、抗議船派遣の声明を出した。前回は自国に対する抗議だったが、今回はソ連。スパイ容疑をかけられるなど不測の事態も予想される。世論は2分した。しかし、博士の決意は変わらない。

 フェニックス号はナホトカ沖10マイルの地点で停船させられる。市民から寄せられた平和メッセージの受け取りも拒否された。博士らはやむなく広島に引き返すが、暴風雨に見舞われて座礁するなど、その後の博士の未来を暗示する航海となった。

 帰国した博士は平和科学研究所の準備に没頭する。しかし、行動派の博士と書斎型の日本の学者とは肌が合わない。紙屋町の小さな事務所で孤軍奮闘。せっせと広島の事情を世界の平和研究所へ書き送り、講演旅行でヒロシマを訴える。

 そんな中、お互いを敬愛していた夫婦が破局を迎えた。後に日本人妻を迎えたこともあって、非は博士に向けられた。もやもやを払いのけるように、博士は再びフェニックス号に乗る。米軍の爆撃に傷ついた北ベトナム市民を救おうと医薬品を積んでハイフォンに向かった。「戦争のない世界をつくるために、こうしてやってきた」とハノイで誇らしげに語る博士。だが、この航海は日、米両政府に博士を危険人物視させた。

 平和の戦士は寂しそうな表情を浮かべ愛艇に乗り込んだ。「平和運動家を温かく迎える風土は、日本にとって過去のものになってしまった」。70年5月。中国への親善航海で出入国管理令違反に問われ、結局日本を退去することになったのだ。知人に見送られ、フェニックス号は静かにイカリを上げた。

 博士と交際のあった原田東岷さん(82)=広島市中区=は「あれだけヒロシマに尽くした博士に広島は報いることがなかった。平和研究所を作るなど先進的な試み。いわば先覚者ゆえの悲劇だったのかもしれない」。米に帰った博士は、大学で平和学を講じる。だが平和の戦士として再び愛艇に乗り込むことはなかった。

 黒人運動指導者の故キング牧師は博士を「ガンジーと並ぶ平和の開拓者」とたたえた。開拓者のまいた種は芽を出し、さまざまな団体の核実験抗議船が登場する。今もフランスが核実験を予定しているムルロア環礁をめざし、新たな平和の戦士たちが南太平洋の大海原を疾走している。

<参考文献>「フェニックス広島号の冒険」(アール・レイノルズ)▽「フェニックスと鳩」(バーバラ・レイノルズ)▽「ヒロシマに、なぜ」(小倉馨)▽「ヒロシマ四十年 森滝日記の証言」(中国新聞社)▽「『原爆一号』といわれて」(吉川清)▽広島新史歴史編(広島市)

(1995年6月25日朝刊掲載)

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