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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <23> 核実験抗議②

■報道部 岡畠鉄也

 子供のころ「放射能の雨」に恐怖した。核実験で飛散した死の灰で日本の空も汚染されているというのだ。運悪く雨粒が体にかかると、絶望的な気分に陥り、そっと髪の毛を引っ張ってみた記憶がある。

 冷戦時代。すさまじいばかりの核軍拡競争は、人類を「滅亡2分前」にまで追い込んだ。核実験は総数で2000回を超す。し、実験場周辺には多くのヒバクシャが出現した。その被害の実態は今もって分からない。

 人類の生存を脅かす暴挙に、被爆地は怒りの声をあげ、世界の良心はさまざまな抗議行動を起こしてきた。座り込み、抗議船の派遣。ともにガンジーの非暴力主義に貫かれた抵抗だった。大気圏、水中核実験を断念させ地下に押し込めたのも、そうした世論の一定の勝利といえよう。

 冷戦構造の崩壊で核軍縮は進む。しかし、依然として45000発近くの核弾頭が存在し、核実験を強行する国もある。核兵器廃絶の願いを身を持って示した人々の思いは、まだ成就していない。

動かざる原点の怒り 原爆慰霊碑前の座り込み

 修学旅行生のにぎわいが消え、原爆慰霊碑の前に沈黙の空間ができた。6月16日の正午から1時間、フランスの核実験再開の発表に抗議する座り込み。梅雨の晴れ間の日差しが、老いを刻んだ被爆者や平和活動家らの顔を射る。

 「人類滅亡の時代は終焉(えん)してはいない。被爆者の平均年齢は66歳。あと5年もすると限界が来る。何としても今世紀のうちに核兵器が廃絶されるよう努力するのが生き残った者の務め」。全国原爆被爆教職員の会の石田明会長(67)は、石畳に座る52人を前にこう訴えた。

 核実験のたびに繰り返される抗議の座り込み。冷徹な国際政治に対抗するにはあまりにも無力との批判もある。しかし、自らに苦行を強いる禅僧のように石畳に座り込む被爆者の姿は、核軍拡競争に対する被爆地の怒りの象徴的な光景であり、人類生存への声なきメッセージでもあった。

 慰霊碑前での最初の座り込みは、1957年3月25日。英国が南太平洋クリスマス島で予定していた初の水爆実験中止を求め、故吉川清、故南小一、河本一郎、故小林薀鉄(葆生)の4氏が「原爆を許すまじ」を歌いながら始めた。

 「慰霊碑に背を向けて座り込むというのは犠牲者とともに抗議するという広島の姿勢なんです」。当時、日本原水協が計画したクリスマス島への抗議船派遣に乗船の名乗りを挙げていた河本さんはこう振り返る。「吉川さんが抗議船で命を捨てるのもいいが、まず広島で出来ることを、と誘ってくれましてね…」

 原爆慰霊碑前の座り込みは反響を呼び、自発的に座り込む市民や激励の差し入れが相次ぐ。世論の盛り上がりを背景に4月20日、原水爆実験阻止広島市民大会が開かれる。4人のやむにやまれぬ思いが市民に伝わり、小さいながらもうねりになった。4人の中の小林氏は2年後、国の再軍備に抗議する抗議文を読み上げ首相官邸前で割腹自殺する。

 日傘をさし白髪を風になびかせる。最前列に座る故森滝市郎・広島大名誉教授の姿は、座り込みの象徴だった。その老哲学者が最初に座り込んだのは62年4月20日である。一時的に核実験を停止していた米ソ両国の雲行きがあやしくなっていた。前日の日記には「米の核実験が近いとの報道。明日午前、緊急拡大理事会(広島県原水協)を開くことになり、その手配。重大決意の前夜」。

 重大決意とは大学に辞表を出して吉川さんらと慰霊碑の前に座り込むことだった。「米が実験を始めれば、ソ連もやるだろう。署名運動もやった。集会も開いた。抗議文も出した。私としてはもう座り込むしか方法がない」と、当時の中国新聞に心境を語っている。

 軽い日射病と疲労に悩まされながら無言の抗議は12日間続く。ある日、前を行ったり来たりする少女がいた。意を決したようにこう言った。「座っとっちゃ、止めらりゃすまいに」

 実験場に入り体を張って止めさせろという意味なのだろう。率直な言葉がひどくこたえた。座りながら行き着いた答えは「精神的原子の連鎖反応が、物質的原子の連鎖反応に打ち勝たねばならぬ」。あくまで非暴力により世論を喚起しなければならないとの信念はこの時生まれた。

 森滝さんは94年に92歳の生涯を閉じるまで、少女の言葉をかみ締めながら座り込みを続け、回数は476回を数える。「棺桶(おけ)に入るまで座り込みは続ける」と、知人に漏らしていた通り最後の座り込みは死の半年前だった。

 核実験のたびに慰霊碑の前に座り込むようになったのは、73年7月20日、南太平洋で大規模な核実験を繰り返していたフランスに対する抗議から。広島県被団協や全電通被爆者連絡協議会など17団体、130人が参加した。以来、座り込みは延々と続き、今回のフランスへの抗議で486回になる。

 市長自ら座り込んだこともあった。73年8月27日。当時の山田広島市長は、炎天下、焼けた石畳の上で無言の抗議を続ける参加者を激励していた。その時、「市長さんも一緒に座りんさいや」と声がかかった。手記集「ひろしまの河」を発行していた故升川貴志栄さんや故日詰忍さんら被爆女性の声だった。

 最前列で約10分間。山田市長は初めて座り込みに参加した感想をこう述べた。「これは被爆者の祈りであり無言の抗議だ。こうした市民のやむにやまれぬ行動をくみとって、広島市としてとるべき道を考えたい」。広島市長が座り込んだのはこれ1回限りだった。

 核軍拡競争を生んだ米ソを軸とする冷戦構造が崩壊し、核実験の数は大幅に減った。だが、中国は依然実験を継続、フランスも再開の動きがある。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)や、イスラエル、パキスタンなど核疑惑に包まれた国々の不気味な沈黙もある。慰霊碑前から座り込みが消える日は遠い。

 石畳に座る人々を冒頭で禅僧に例えた。ある日、同じ印象を持った観光途中の老人が森滝さんに話しかけた。「禅の修行者みたいなお姿ですね」

 「ええっ?、そう見えましたか。無我の境地の禅とはまるで違うんですよ。何しろ、このあたりにいっぱい憤りを抱えているんですから」。森滝さんはほほえみながら胸のあたりをなでてみせたという。

 
ささやかでも反核の連帯に

 広島県原水禁の横原由紀夫事務局長(54)は、73年7月20日の仏核実験に対する抗議以来、原爆慰霊碑前での座り込みを1度も欠かしたことはない。16日、フランスの核実験再開発表に対する座り込みで486回を数えた。

 「新聞を開き、まず核実験の記事を探す。残念ながら、もう生活の一部になってしまった」

 横原さんは鳥取県出身。全電通の組合活動を通じ平和運動にかかわる。観念論が中心の運動に燃焼し尽くせない思いも心の片隅にあった。そんな時に飛び込んで来たのが座り込みへの呼びかけだった。「石畳を通じて力がわいてくる。やっと汗を流す運動に参加できたという感じだった」

 座り込みを始めたころのこと。1人の外国人がじっと見つめていた。話しかけると「私も核兵器に反対する。おじの政策は誤りだった」ときっぱり。その男性は原爆投下を命令した故トルーマン米大統領のおいだった。「正直なところ、座り込みに否定的になったこともある。でも彼の言葉からささやかな行動でも横のつながりを生むことを実感した」

 激励の便りが届く。100円玉をテープで張った小学生のカンパや「平和公園」気付で「アリガトウ」とだけ打った匿名の電報もある。「座り込みに参加する人は市民のほんの一握り。でも世界の心ある人が一緒に座り込んでいるのです」

「母国の実験だから」ともに座る

 被爆者の深層心理を研究し「死の内の生命」(68年出版)を著した米の精神医学者ロバート・リフトンさん(69)は75年5月、原爆記録映画の制作協力のため広島市滞在中に自国の核実験を知り、被爆者らと原爆慰霊碑前に座り込んだ。

 「私の国がやったことだから…」と、故森滝市郎さんの隣に1時間座ったリフトン氏は帰国後、ニューヨーク・タイムズ紙に座り込みの意義を心理学者の目で追求した「核病保菌者」という論文を発表した。

 「座り込みで核実験を止めさせることは難しい。ヒロシマにはむなしさもある。しかし、座り込みは依然として核の恐怖を目の当たりに思い起こさせる。人々はよく『ヒロシマの被爆者は核アレルギーにかかっている』と言う。しかし、そう言う人ほど”核病保菌者”である。彼らの国際協調論の裏側には人間らしからぬ狂気がある」

 リフトン氏の鋭い観察眼に裏打ちされた座り込みの意義は反響を呼び森滝さんらは「座り込みの精神的連鎖反応が米に飛び火した」と喜んだ。

座り込む姿に気高さ見た

 原爆慰霊碑前に座り込む人々の中に、黙々と絵筆を走らせている画家がいる。広島市西区田方2丁目の吉野誠さん(62)。座り込みに参加しながら被爆者や活動家の姿を描き続けたスケッチは300枚を超える。

 吉野さんは元中学校の美術教師。少年時代、旧満州(中国東北部)で体験した戦争の悲惨さを原点に平和教育にも携わった。20年ほど前のこと。平和の尊さを説く教師に生徒が問うた。「それじゃあ、先生は平和のために何かしよるん」。ショックだった。

 84年、体の不調や家庭の事情で教員生活にピリオドを打つと積極的に座り込みに参加した。最後列に座る吉野さん。無言で座る被爆者らの気高さに感動した。「この姿を書き残すことが画家である自分ができる平和運動だ」。生徒の問いに対する答えをようやく見つけた。

 スケッチは後ろ姿か横顔。正面はない。座り込みの輪の中にいないと「自分だけ第3者になったようで心が痛むから」。スケッチでつかんだイメージを基に抽象画も描く。作品の多くに座り込む人々のX字型に組んだ足が登場する。Xに核廃絶への思いを込めた。

 6月1日から広島市でアルゼンチンの女性反戦画家と展覧会を開いた。タイトルは「希望を讃える芸術展」と名付けた。

<参考文献>「フェニックス広島号の冒険」(アール・レイノルズ)▽「フェニックスと鳩」(バーバラ・レイノルズ)▽「ヒロシマに、なぜ」(小倉馨)▽「ヒロシマ四十年 森滝日記の証言」(中国新聞社)▽「『原爆一号』といわれて」(吉川清)▽広島新史歴史編(広島市)

(1995年6月25日朝刊掲載)

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