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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <25> 文芸

■報道部 西本雅実

 原爆を扱った文芸、映画はその作品の数、内容とも豊かだとは言い難い。作家井伏鱒二氏は「『広島のこと』のような大事件は文学作品の対象とするには巨大すぎる。手にあまる素材である」と記した。それでも創作者たちは原稿用紙にフィルムの上に、原爆を通して人間の姿をとらえ、焼き付けようと挑んだ。

 「流行作家」の名をほしいままにした梶山季之さんもその1人であった。広島での文学青年時代から原爆を描こうと苦闘した。しかし、秘めた志を果たせぬまま倒れた。被爆直後の広島・長崎を撮った日本映画社の原爆記録映画は長い間「幻のフィルム」と呼ばれ、日本語版は今も政府の「検閲」下にある。

 被爆実態が途上解明にあり、その受難が続くごとく、原爆をテーマとする作品に「完」はない。だからこそ、つくり続られる必要があると言えないか。

 
赤裸々な原爆 作品に 「流行作家」梶山季之さん

 その封書は差出人の住所はなく、「原民喜」とだけあった。封を開けると、「若き友へ」と題した原稿用紙1枚半の文書が右上がりのきちょうめんな字体でしたためてあった。

 「あなたに限らず、あの時のことを書きたがってゐる人を私は23知ってゐます。みんな書きたいのですね(略)これが私があなたに差上げる最初の、最後の手紙なのです。御元気で…」(原文のまま)。そう始まり、そう終わっていた。

 梶山季之さんが、この原民喜からの遺書を受け取ったのは、自筆の記録によると1951年3月19日とある。被爆体験を小説「夏の花」に結晶させた孤高の作家はその6日前の3月13日深夜、都内の鉄路に身を横たえていた。

 当時、梶山さんは広島高師(現広島大)の国文科に在籍する21歳の学生。仲間を誘って「天邪鬼」と名付けた同人雑誌を始め、その創刊2号で中央文壇の作家たちに「同人雑誌に望むもの」というアンケートを送った。原民喜から短い返信があった。それだけの淡い間柄であった。

 しかし、この無名の文学青年は、一面識もなかった詩人にして作家の追悼に生来の行動力でこたえる。広島市への「原民喜詩碑」建立に尽力したのである。

 「あのころは広島でも原民喜の名はそれほど知られておらず、作品に梶山が目を通していたとは思えない。それが思いもかけぬかたちで遺書が届き、文学的な助言まであったことに感激していた」。かつて「天邪鬼」に参加し現在、「安芸文学」を主宰する岩崎清一郎さん(64)=広島市東区=はそう回顧する。

 梶山さんは、自ら東京に赴き原民喜ゆかりの文学仲間を訪ねる。詩碑の建立計画を聞くやその場で協力を買って出た。広島県、市の幹部も入った詩碑建設賛助実行委員会の結成を働き掛け、募金や東京側との打ち合わせに奔走した。

 現在は原爆ドーム東手に再建移設されている原民喜詩碑は、かいあってその年の11月、佐藤春夫氏たちを招き広島城跡で除幕された。

 梶山さんはその除幕の日を期して、乱立していた同人雑誌を糾合し「広島文学」旗揚げも仕掛けた。編集兼発行人も務め、自宅が広島文学協会の事務局だった。この雑誌に集まった若手グループに呼び掛けたのが「原爆の文学研究会」である。

 研究会は原爆をイデオロギーからの言説ではなく、表現の問題として考えるきっかけになった。岩崎さんは「この功績はもっと評価されていい」と言う。後年の週刊誌記者時代に「美智子妃決定」をスクープするなど「トップ屋」との一時代の言葉を広めた異才ぶりはすでに、このころから発揮されていた。

 しかし、この研究会に加わった1人で、作家小久保均さん(65)=広島市南区=は梶山さんの行動力は認めながら、こう述べる。

 「広島の地で文学を志す者の多くが原爆を天災、無常観でとらえていた。被爆を思想化、普遍化する意識がなかった。そうした抽象的な議論を最も苦手にしていたのが梶山だった」

 もっとも、それは梶山さんの資質の問題というより、今も続く文学上の問題だろう。研究会そのものも長続きしていない。ただ広島在住の作家が53年に「原爆文学」論争を中国新聞紙上で盛んに展開した時も、「広島文学」の名編集長とうたわれた梶山さんが書いたものや、表立った発言はみられない。

 そのころ、梶山さんは大学卒業前に見つかった肺結核で、希望していた新聞社への就職もうまくいかず、失そう同然に上京していた。喫茶店主、業界紙の編集などをしながら、原爆をテーマにした「純文学」作品や習作も著した。

 ABCC(原爆傷害調査委員会)を舞台にした「実験都市」(54年)、裁判仕立ての「原爆投下犯人」(55年)…。それら原爆ものは酷評されるか、黙殺された。わずかに「ヒロシマの霧」(58年)がラジオドラマとなり、コンクールで3位入賞した。

 「珠玉の短編を残したい」「プロとして筆1本で生きる」という気迫だけが、空回りする文学的彷徨(ほうこう)の日々が続く。

 60年代の高度成長期を前に出版社系週刊誌の創刊ラッシュが起きると、自ら売り込んで「トップ屋」へ方向転換した。文学青年からルポ・ライターへ。

 業界で名うての「トップ屋」グループを率いスクープを連発。しかし再び胸を患った。この時、入院先のベッドで書いた産業スパイ小説「黒の試走車」(63年)が一躍ベストセラーになり、たちまち流行作家に。文壇所得番付1位の作家はポルノ小説も書き飛ばし、「性豪作家」の異名をまつられた。

 原爆とセックス。このおよそ似ても似つかない2つのテーマを強引に結び付けたのが、梶山さんが71年発表した小説「ケロイド心中」である。

 作品は、被爆のつめ跡を顔に残す妹とその兄の心中事件に遭遇した週刊誌記者が、夫婦関係にまであった兄妹の秘めた半生を追うという筋立て。ところが、被爆者団体や政党系の文化団体などから「被爆者の心を踏みにじる」と相次いで厳しい抗議を受けた。

 「強烈なテーマで世論を喚起したいと思った。観念的な『聖ヒロシマ』的見方だけでは(現実社会の)谷間の被爆者は救われない。生身の肌で庶民が感じる広島を書き、世間の目を現実に向けさせようと思った」

 梶山さんはそう作品の意図を述べた。が、理解は得られなかった。文学上の問題として論じようとする動きも起きなかった。手あかにまみれたイメージが増幅するだけで終わった。

 「虚と実。故郷喪失者の梶山は、建前をはぎ取ったところで世界をみていた。人が持つ愛欲から原爆に迫るのも文学。そうした考えは広島ではタブーというか、許されないんですかねぇ…? 」

 梶山文学について秀逸な評論を持つ坂田稔さん(65)=東京都世田谷区=を訪ねると、もどかしげな表情を浮かべた。坂田さんはソウルにあった小学校で梶山さんと同級。下級生に五木寛之氏がいた。ともに戦後に家族で引き揚げ、坂田さんも広島高師で学んだ。

 梶山さんの代表作と呼ばれるものは、日本が植民地支配した朝鮮民族の悲しみを描いた「族譜」であり、「李朝残影」。その筆致は温かい。韓国で映画にもなった。

 「原爆を書かなくてはと言っていたが、本人のサービス精神過剰から、『困った時の梶頼み』とばかりマスコミにこき使われて…」。坂田さんは、梶山さんを虚無的デカダンスと健康な明るさないまぜの作家であったと言う。

 月1000枚を超すマスコミの原稿依頼をさばき、埋もれた文献資料を集め、文壇雑誌の発行・経営もこなした。もともと病弱の体、筆は荒れた。深酒もたたった。それでも、梶山さんは「ライフ・ワーク」執筆を宣言し準備を進めた。

 日本移民の母が生まれたハワイ、生まれ育った韓国、そして広島を舞台にした小説「積乱雲」である。新潮社から書き下ろしで年2冊ずつ、10年間に及ぶ計画であった。梶山さんはそのテーマを「民族の血と人間の平和」と書いている。

 それが、「広島県佐伯郡G村」の第1部1章で中断した。75年5月、取材先の香港で吐血し、そのまま亡くなった。くしくも原民喜と同じ45歳の生涯だった。

 広島時代から苦楽を共にした妻の美那江さん(64)は「本人は『積乱雲』ひとつに絞り、もう1度、初心に戻って書くつもりでした」と言う。美那江さんの手元には、梶山さんが上京した際から携えていたとみられる黄ばんだ大学ノート3冊が残る。

 表紙には「原爆」と記し、取材素材や感想、新聞報道、被爆体験記の断片をびっしり書き込んである。「黒い雨」「エノラゲイ号」「ピカドンと性」…。小説の題名らしきものもふってある。「積乱雲」で使われたのであろうか。今となっては美那江さんにも分からない。「積乱雲」執筆のため集めた資料など8000点は、ハワイ大へ寄贈、研究者に公開されている。

 「しょせん、文学は荊棘(いばら)の路なのです」。原民喜の遺書の1節である。梶山さんは彼なりにその道を歩んだ、そこで苦闘したと言えないだろうか。

 「花不語(花は語らず)」。生前好んだ言葉を彫った「梶山季之碑」が今、広島時代の自宅そばの本川河岸に建つ。

<参考文献>「天邪鬼 故原民喜氏のために」(梶山季之編)▽「実験都市」など(梶山季之)▽「梶山季之のジャメー・コンタント」(季節社編)▽「梶山季之の世界 追悼号」(別冊新評)▽「定本 原民喜全集」(青土社)▽「ヒロシマ二十年」(加納竜一・水野肇)▽「占領されたスクリーン」(岩崎昶)▽「原子爆弾」(仁科記念財団編纂)▽「映画への思い出」(井上壽恵男)▽「聖林からヒロシマへ」(工藤美代子)

(1995年7月9日朝刊掲載)

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