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被爆地下 近世・近代の姿 原爆資料館本館下 発掘調査で報告書

缶詰工場の遺構・土葬墓 大正以前の歴史に光

 広島市文化財団は、原爆資料館(中区)本館下で2015~17年度に実施された発掘調査の報告書をまとめた。16世紀末に城下町として始まり、近代を経て原爆によって壊滅するまでの街の歴史を垣間見ることができる。(城戸良彰)

 発掘は本館の耐震工事に合わせ、市が同財団に委託する形で実施。調査範囲は2192平方メートルで、1・5~2メートルほど掘り下げた。専用コンテナ(縦63センチ、横44センチ、高さ10センチ)1300箱分の出土品があった。

 地表から約70センチ掘ると被爆時の地面に当たる。被爆地層の本格的調査は長崎も含め初めてだ。一帯は戦前には中島地区と呼ばれる広島有数の繁華街。今回の調査範囲は爆心地から約500メートル離れ、民家や商店などが並んでいた。熱で溶けたガラス瓶や炭化した木製しゃもじなどの出土品から、被爆の影響や生活の痕跡をうかがうことができる。

 地下室や防空壕(ごう)跡から瓦や陶磁器の破片が固まって見つかる例もあった。被爆直後に片付けのため捨てたとの元住民の証言と合う。同財団の桾木(くのぎ)敬太主任学芸員は「発掘で証言を裏付けたり、証言により発掘で曖昧だった部分を補強したり、発掘と被爆証言は互いに補い合える」と強調する。

 同じ近代でも明治、大正、昭和と街の景観が変わる場合がある。昭和期の記憶に偏る被爆証言では詳しく分からなかった、大正期以前の街並みを知ることができるのも意義深い。

 同地区では1898(明治31)年から1921(大正10)年ごろまで、広島屈指の缶詰工場が操業していた。発掘で缶のふたや足踏み式のブリキ切断機の遺構などが見つかっている。登記上、工場用地は本館下のごく一部だが、出土状況から実際は他の区画も借り上げるなどして広い範囲で操業していたと考えられる。

 さらに掘り下げると江戸時代の地層に当たる。これまで広島で近世遺跡の発掘は広島城郭に関するものに限られ、城下町の本格的調査は初めてとなる。

 築城と同時期に創建された大寺院、誓願寺(現在は西区)の礎石や周囲を囲む堀が出土している。当初堀の存在は想定していなかったが、出土後、18世紀前半の「広島城下町絵図」「広島町新開絵図」に描かれていることを確認。絵図の正確さを立証した。

 多数の庶民の墓も見つかった。近代墓も合わせ約560基が発掘されたが、うち約400基が江戸期の土葬墓だった。直径60センチ前後の円形遺構と人骨が出土しており、座った遺体を納める円筒形の簡易な木製棺おけ「早桶(はやおけ)」を埋めた跡とみられる。同じ区画に重層的に墓が築かれているため、昔の墓を埋めて新たな墓地を造成したことが分かる。

 「近世・近代の庶民の居住域が発掘対象となるのは全国的にも珍しい」と桾木さん。「被爆の実像を知るという意義はもちろん、歴史研究の上でも先駆的な成果だ」と話す。

 報告書はA4判。本文編(512ページ)1冊、写真図版編2冊、付図編1冊の計4冊で1セット。広島市内の公立図書館、中区の公民館などに配った。ウェブサイト「ひろしまWEB博物館」上で公開している。

(2020年5月21日朝刊掲載)

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