中国新聞社

2000・2・18

被曝と人間第2部臨界事故の土壌[8]        
映画監督 新藤 兼人

 

 

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しんどう・かねと シナリオライターとして映画界に入り、「愛妻物語」(1951年)で初監督。「原爆の子」は海外数カ国で映画賞を獲得した。代表作に「裸の島」(60年)など。46作品目の「三文役者」が今秋公開予定。広島市佐伯区出身。87歳

    放射能の恐怖は忘れられたのか

 

被爆体験風化が背景

 「臨界事故で、日本人はもっと放射線で被害が出たことに驚き、恐れるのかと思った。でもそうではなかった。もしかしたら、原爆が落ちた時から、核被害に対する反省は一歩も前に進んでいないと思うほどだ」

 新藤氏は、広島県佐伯郡石内村(現広島市佐伯区)生まれ。原爆が落とされた時は兵庫県にいて、被爆はしていないが、「古里を壊滅させた原爆の告発は自分のアイデンティティー」と語る。被爆の傷跡が残る広島で撮った「原爆の子」(一九五二年)、ビキニ被災を告発した「第五福竜丸」(五八年)など、原爆や核をテーマにした映画を撮り続けてきた。

 ■核被害の認識希薄

 「原爆は戦争、臨界事故は平時に起きたことで、違うのは当たり前。でも、放射線(被害が出たこと)で、両者はつながっている。原爆は何万もの人を殺し、今も被爆者を苦しめている。その放射線がまた、住民の生活を脅かした。事故の原因究明や責任追及は必要だが、違法行為やバケツにみんなの意識が集中しすぎだ。事故が核の被害だという認識が薄いように思う」

 核に対する日本人の恐怖心が薄らいできた、との指摘である。その背景にあるものを、新藤氏は「被爆体験の風化」と断じる。

 「まさしく原爆の風化そのものだ。無知といってもいい。事故を起こした作業員も、ジェー・シー・オー(JCO)も、監視している科学技術庁も、東海村も。そうでなければ、あんなずさんな作業はできない」

 「原爆や放射能を、現実の暮らしの中で感じることが日本人にできなくなった。原水爆禁止運動にしても、運動することに飽きている状況ではないか。ビキニ被災(一九五四年)の時から見れば、個人が利己的に、そして利口になった。それで、臨界事故も国民全体の問題にならない」

 ■暗いイメージ嫌う

 「広島は、原爆でどれだけ人が亡くなり、いかに残酷か分かっているはずだ。でも、臨界事故に反応したとは思えない。広島の存在価値は、原爆の洗礼を受けたことにあるのだが、広島も原爆の暗いイメージを忘れたがっている、と感じる。広島でも風化してるんだ」

 東海村は、事故から約二カ月後の昨年十二月、「防災とまちづくり」に関するアンケートを実施した。原子力の安全性について、事故前にどう考えていたか、事故後はどうかを村民に聞いたところ、「安全」「まあまあ安全」の合計は、六二・六%から一四・六%に急減していた。人口三万三千人のうち、約三割は原子力関係に従事し、家族を含めると半数を超えると言われる。その「原子力の村」の人々の意識は、事故を経て確実に変わっている。

 ■国は原子力議論を

 「原子力の施設は、いわば辺境の地にある。交付金をばらまいて、経済的に弱いところに付け込んできた格好だ。でも、今までのやり方はもう通用しない。現代は、不信の時代だ。政治や経済、教育そして科学など、国の権威を支えた構造がすべて揺らいでいる。国は原子力について堂々と議論し、東京の近所に施設を造るぐらいのことをしないと、安全性なんてだれも信じない」

 「私は原発に賛成ではないけど、原子力は現に文明として成り立っている。使わねばならないという国の根拠や主張も聞く必要があると思う。それには、反対者も納得させるだけの、放射線が外部に漏れない設備が必要となる。そして何よりも、核への恐怖心を薄れさせた日本人が、原子力の功罪やそれを使う意味についてあらためて問い直すことが大切だろう」


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