中国新聞社

2000・3・22

被曝と人間 第3部 ある原発作業員の死
〔1〕白血病

闘病2年 力尽きる

  ■線量 法定の5分の1 嶋橋さん

 相模湾を望む神奈川県横須賀市の郊外。嶋橋さんの遺影が見つめる居間で、母美智子さん(62)は、息子の死亡診断書をそっと机に広げた。死因の欄には「慢性骨髄性白血病」。初診時の白血球数は、正常値の数倍の「二~三万」、嶋橋さんには、別の病名を告げたとも記されていた。

 美智子さんが長男の病名を知らされたのは、一九八九年十一月。当時暮らしていた浜岡町の町立浜岡総合病院で検査を受けた後、紹介された浜松医科大医学部付属病院(静岡県浜松市)でだった。

 「白血病と言われてもピンとこなかった。血液のがん、あと数年の命かも、と聞かされて、頭の中が真っ白になった。まだ若いのに、そんなばかなって。病院からどうやって家にたどり着いたのか覚えていない」

 嶋橋さんは八一年春、横須賀市内の工業高校を卒業後、横浜市の建設会社(現在は本社東京)に就職した。中部電力(名古屋市)の原発や火力発電所の保守、点検を請け負う孫請け会社。入社後すぐに浜岡原発へ派遣され、原子炉の計測機器の交換などの仕事に就いた。

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遺品を手に、嶋橋さんの闘病生活を振り返る母美智子さん(神奈川県横須賀市の自宅)

 告知を受けた時、両親は長年住み慣れた横須賀市から浜岡町へ引っ越したばかりだった。新居の二階から、コンクリートで覆われた原子炉建屋が見えた。ゆくゆくは孫の世話をする夢を抱いていた。

 浜岡総合病院で嶋橋さんを初診した小野七生医師(50)は現在、静岡県袋井市で医院を開業している。

 「お母さんから、後に原発での被ばくとの関係を尋ねられたが、分からないと答えた。私が覚えている限り、彼と同様、原発作業員が血液の病気になったケースは数例あったが、低線量被ばくと白血病の因果関係を解明することは不可能に近いから」

 嶋橋さんは、一年間の通院を経て入院する。白血球数は六万を超えていた。その半年後には、八十キロあった体重は五十キロ台に落ちた。

 壮絶な闘病生活を振り返る時、美智子さんの目はみるみる赤くなる。

 「体中が痛かったんでしょう。ベッドに触れると振動が響いて痛いと怒ってね。歯ぐきからの出血が止まらず、ふいてもふいてもあふれてくる。血がにじんだタオルを入れたごみ袋がいくつもできた」

 「私に甘えず、世話を焼くと怒っていた伸之が、亡くなる数時間前、ぎゅっと私の手を握ったんです。そして私の顔のマスクを一生懸命ずらそうとする。無菌室だからと元に戻しても、マスクをずらすのをやめなかった。最期に私の顔が見たかったんでしょうか」

 九一年十一月二十日午前四時五十五分、嶋橋さんの白血病との闘いは終わった。発症から二年一カ月。浜岡原発で約九年働き、二十九歳一カ月の人生だった。その間の被ばく線量は、五〇・六三ミリシーベルト。年間では最多の年でも九・八ミリシーベルトで、法令で定める年間被ばく線量限度の五〇ミリシーベルトを大きく下回っていた。

 両親は一人息子を失った後、その死が問い掛けた答えを探し求める。「なぜ白血病で死んだのか」―。自宅の窓越しに原発を見つめながら、被ばくと白血病に因果関係があるとの思いを強めていった。


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