中国新聞社

2000・4・27

被曝と人間 第4部 源流 1950年代
〔3〕映画「ゴジラ」

放射能の怖さ告発

  ●ビキニ被災がヒント

 第五福竜丸が米国の水爆実験に遭遇した「ビキニ被災」から八カ月後の一九五四年十一月、日本国民の「放射能観」に大きな影響を与えたとされる一本の映画が封切られた。日本初の特撮怪獣映画「ゴジラ」である。

 ■9人に1人が観賞

 水爆実験で巨大恐竜が眠りから覚め、暴れ回る―という設定の映画。国民のほぼ九人に一人に当たる九百六十一万人が映画館に出掛け、日本映画史に特筆される作品となった。

 米ソ冷戦のなか、核実験が繰り返されていた。「死の灰」に日本中がおびえ、「雨にぬれたら死ぬ」「魚が食べられなくなる」という言葉が飛び交った。

 東京都杉並区の主婦たちが呼び掛けた原水爆禁止署名運動が瞬く間に広がる。占領下で抑圧されていた広島、長崎の原爆被害の訴えに、国民が耳を傾け始めていたころでもあった。

 「放射能の恐ろしさが現実問題としてあった。それがゴジラを生む土壌になった」と、映画の音楽を担当した東京音楽大名誉教授の伊福部昭氏(85)は振り返る。ゴジラの鳴き声は不気味な響きを強調。これも見る人に「放射能は怖い」というイメージを膨らませた。

 当時プロデューサーで後に東宝映画会長となる田中友幸氏(故人)が制作を思い立ち、新進の本多猪四郎氏(同)が監督を務めた。

 「ばかな話だと照れてつくるんだったらやめてくれ。喜劇じゃないんだ」。東京都世田谷区に住む本多きみさん(83)は四十六年前、夫がそう語るのを、自宅で若手スタッフに交じって聞いた。

 敗戦から九年。復興目覚ましい東京を徹底的に破壊する姿は、戦争、空襲を生々しく思い起こさせた。本多氏自身、戦争の影を引きずっていた。召集は三度、計八年もの時を戦場で過ごした。「軍隊時代は嫌だなと思ったら狂っていた」。家族に戦争体験を語らなかった本多氏が、わずかにきみさんに残した言葉だ。

 捕虜生活を終え、東京へ帰る列車の窓から見た広島について本多氏は生前、周囲に何度も語っている。「あの時の広島の惨状、放射能の怖さみたいなものを、どうやって表現したらよいか」

 ■劇中に思いを反映

 そんな本多氏の思いは、劇中に反映された。さまざまな登場人物が、ビキニ被災や広島、長崎の原爆被害に関係したせりふを語る。

 「長崎の原爆から命拾いしてきた大事な体なのに」「原子マグロだ、放射能雨だ、そのうえ今度はゴジラときたわ」「もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、世界のどこかへ現れるかもしれない」

 破壊し尽くされた焼け跡で、女学生による平和の祈りの合唱シーン。本多氏がどうしても入れたい、と伊福部氏に合唱の指揮を頼み込んだ。「核を告発しようなんて口にしなかった。でも、原爆への怒りや亡くなった人への慰霊、それを生み出した科学への不信が自然とにじんできた」。伊福部氏は、当時の本多氏の心境を推し量る。

 ■反核色次第に薄く

 放射能の怖さにリアリティーがあった時代に生まれたゴジラ。現在までシリーズ二十三作品がつくられた。だが、二作目以降の作品は、時代とともに反核の色合いを次第に薄めていく。


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