中国新聞社

2000・5・1

被曝と人間 第4部 源流 1950年代
〔6〕原爆医療法

対象者拡大も論議

  ●政府は難色 実現せず

 ■新たな核被害予測

 ビキニ被災をきっかけにした原水爆禁止運動の国民的な高揚を追い風に、広島と長崎の原爆被爆者への医療給付や健康診断などを定めた「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法)」が一九五七年三月三十一日、成立した。被爆者の長年の願いが結実する過程で、同法の対象者にビキニ被災者や原子力利用の被曝(ばく)者も含めるべきだという論議があった。そこには、核時代の被害者すべてを見据えた援護意識の萠芽(ほうが)が見いだせる。

5月1日
原爆医療法施行後、広島原爆病院で健康診断を受ける被爆者たち。同法は原爆被爆者に限った国の援護のスタートとなった (1957年8月1日)

 「放射能、原子力の問題というものが今、国論を沸騰さしておる。この法律を広島、長崎だけに限るとするなら時代遅れだ。原子力の研究や発展、原水爆実験の状況から考えて、考慮する段階にきている」

 五七年三月二十五日の第二十六回国会衆院社会労働委員会。法案の審議で、福岡四区選出の社会党議員滝井義高氏(85)が、持論である対象者の拡大を訴えた。

 社会党は、政府が法案を提出する前、医療費のほかに生活費も国が負担する法案を議員立法で制定する用意を進めていた。対象は、原爆被爆者とビキニ被災などの原水爆実験の被害者だった。「放射線障害がその後の医療のテーマになると思っていた。被ばく者がもっとたくさん生まれるという緊張感もあった」。今、福岡県田川市長を務める滝井氏は、こう回想する。

 ■「検討」とのみ答弁

 国会に提出された政府案は、対象を原爆被爆者に限定していた。

 政府を追及する質問は、滝井氏以外の議員からも相次いだ。「米国、ソ連、英国が原爆や水爆の実験をやっておる。当然、日本で放射能の被害を受ける人が多数出る」「原子力利用によって幸福を得るべき人間自体が滅びてしまったら何にもならない」

 だが、当時の神田博厚相から「日本も原子力を産業に活用する時代を迎えようとしている。もう少し検討し、またご相談申し上げる時期があろうかと思う」との答弁を引き出しただけで、それ以上論議は深まらなかった。原爆被爆者と他の被ばく者を切り離し、その線引きが確定するきっかけになった。

 ビキニで「死の灰」を浴びた第五福竜丸の乗組員たちはこの時、原爆医療法の対象から外された。乗組員の一人、大石又七さん(66)=東京都大田区=は苦々しげに言う。「私らはヒバクシャであってヒバクシャではないんです」

 ■被曝の事実は同じ

 核実験や原子力利用による被害者への法的援護が結実しないで終わった一九五〇年代。滝井氏は「日本が、こんな原子力発電大国になるとは当時、想像もつかなかった」と振り返る。

 それから四十年。国内の原子力平和利用史上、最悪となった東海村臨界事故が昨年九月に起きた。死者二人、一般住民も含めた被ばく者は合わせて四百三十九人に上った。新たな核被害者が生まれた今、滝井氏はこう考えている。

 「あのころは原水爆は悪で、平和利用は善だった。その平和利用で被害が起きるなんて、だれも真剣には考えなかった。でも人間が被ばくするのは同じ。原子力災害に対する国の施策の枠組みをあの時、つくるべきだった」

(第4部おわり)

MenuBack