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ヒロシマの記録-遺影は語る  広島市女2年




広島市女226人の遺影確認

「あかし残る」級友協力

学徒動員 最多の被爆死

-本社が被災状況調査-

 広島原爆で最も多くの生徒が犠牲になった広島市立第一高等女学校(市女、現市立舟入高)について、中国新聞社は二十七日、入学写真が残っていた二年生六クラスの被災状況を、同級生や遺族らの協力を得てまとめた。現在の平和記念公園(同市中区)の南側一帯の建物疎開作業に動員されて被爆死した二年生二百六十四人のうち、二百二十六人の遺影を確認した。


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級友と写る入学写真を基に、原爆死没者を確認し合う元広島市女生たち(1月24日、広島市中区の中国新聞ビル)
 同級生による初めての被災調査は一月下旬、中国新聞社で行い、広島県内や大阪、山口、福岡から三十人が集まった。

 原爆投下の前年の一九四四(昭和十九)年四月に撮影されたクラスごとの入学写真と、市女原爆遺族会の死没者名簿などを照合。さらに、舟入高に保存されていた「生徒出欠調査表(戦災後)」を参考に、当時十三、十四歳だった少女一人ひとりの被爆状況を追跡した。

 入学写真に写っている生徒三百十人のうち、二百八十九人の名前が分かり、被爆死した二百二十四人が遺影として確認できた。さらに、転入生の死没者二人の遺族と同級生から遺影の提供を受けた。自宅などで被爆して助かったり、疎開先にいたりした生存者は五十四人(うち二人は昨年死去)。戦中・戦後の混乱期に転校するなどして、十一人はその後の消息が分からなかった。

 市女の一、二年生は国の学徒勤労令により、広島市街を東西に貫く防火地帯の設定のため、原爆投下前日の八月五日から、爆心地の旧中島地区(平和記念公園南側一帯)の建物疎開作業に動員され、計五百四十一人が亡くなった。戦争末期に入学した一年生は、クラス写真を撮っていなかった。

 生存者の多くは、乏しい食糧事情や炎天下の作業で体調を崩し、当日は自宅などで原爆に遭った。親、きょうだいを失った人もいる。しかし、級友の大半が作業に出て犠牲になったことから、「亡き友や遺族の気持ちを思うと生き残ったことが申し訳ない」などと、慰霊祭への出席や人前で体験を証言するのを控えてきた。

 今回、五十四年ぶりに被爆死したクラスメートの確認作業に応じたことについて、元市女生たちは「平和を知らずに亡くなった級友のあかしを残すのが、生かされてきた者の務め。二度とあのような悲劇を起こさないため、戦争・原爆の事実をもっと若い人たちに知ってほしい」と話している。




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